June 15th,- 21st, 2008 Vol.15 No.24

教会(自分)をもっと良く知るシリーズ:エフェソの信徒への手紙より (4)
一致のための成長?成長のための一致? (4:1-16)

A. クリスチャンの一致とは (1-6)

1) 私たちは何によって一致できるのか?(1-3)

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(1-3)

私たちの共通点は神様から招かれた者であるということです。私たちに求められていることは招きに応えた者として歩むということです。神様の招きにふさわしい性質とは何でしょう?それは一つだけではありません。礼拝を何よりも大切にする。神様を信頼して歩む。偶像礼拝に陥らない。まだまだいろいろ考えられますが、一致を保つということも欠かせないことだとパウロはいうのです。私たちの一致は利害関係による一致でも、趣味の一致でも、性格の一致でもありません。初めにお話しした通り招かれた者としての一致です。パウロはそれを「霊による一致」と表現しています。この一致は口で言うほど簡単ではありません。沢山の教派、グループがあることは悪いことではありませんが、互いにけなしあったり、こっちだけが正しいと言い出したりしたなら、そこに神様の求める一致はありません。一致を保つには、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持たなければなりません。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれていなければ一致しているとは言えないのです。後半でどのように一致を保つのかお話ししますが、その前に一致しなければならない理由にふれておきたいと思います。

2) 私たちはなぜ一致しなければならないのか? (4-6)

体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(4-6)

一致しなければならない理由がここに簡潔に述べられています。私たちは一つの体である教会として、神様の霊に導かれて、この世界を罪の支配から解放して、神様の平和の実現のため、この世界に使わされているのです。一つの体、霊、希望を抱いているのに一致していないでいい理由はないのです。同じ希望を抱いているものがなぜ対立していることができるでしょうか?しかしもっと根本的な理由がこの部分の最後に出てきます。それは神様が唯一のお方であるということです。神様は、例外なくすべての存在の上に、それを創られた方としての支配権をもっておられます。そしてその意思をあらゆる被造物を通して現されるかたです。そしてその同じ方がすべてのもののうちに住んでくださるのだとしたら、一致しようとしないのは、神様に対する反抗です。高ぶって、柔和でなく、寛容さも持たず、忍耐をしない者は一致を求めない者です。一致を求めない者は、神様の計画されている世界の調和を喜ばないで混乱をもたらす者なのです。

B. 私(部分)の成長、教会(全体)の成長 (7-16)

1) みんな違っていて当たり前 (7-11)

それでは、どのように一致を保つことができるかについて考えてゆきましょう。最初に読んだ1-3節によれば、そのためにはイエス様のような徳性を持たなければ不可能のように思えます。しかしこれから読む後半部分によって、私たちのクリスチャンとしての成長がそれを可能にするということがわかります。パウロはこのことを語るのにまず、皆が違っているということについて少しふれています。一致とは同じようでなければならないのではない、ということを確認しておきたかったのです。7−11節です

しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。(7-11)

ここで分かることは、相違は一致を妨げるものではないということです。どんなに互いが違っていても、それは一致できない理由には出来ません。むしろそれぞれが自身の特徴をもっと活かせるように成長することによって、より高次の一致が実現するのです。もちろん違っていることだけでは、どんな一致も望めません。1-3節のイエス様の徳性に少しずつ身につけるために一人一人の成長が求められます

2) それぞれの成長(12-15)

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。(12-15)

私たちの成長は、「奉仕の業に適した者となる、キリストの体を作り上げる、神の子に対する信仰と知識において一致する」というはっきりした目標をもっています。その究極のゴールは愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに似た者となるということです。私たちはこの成長のために、礼拝を何よりも大切にします。ミニチャーチで仕えあうことも成長の機会です。多くのクリスチャンではない人々と共に過ごす日常生活で実践して、さらに成長します。その努力は、キリストに似た者に変えられるという、私たちの究極的なゴールに向かって、私たちを少しずつ前進させてくれるのです。

3) 体全体の成長(16)

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(16)

私たち一人一人の成長は、キリストの体(教会)全体の成長とリンクしています。教会の成長に役立たない個人の成長ということはあり得ません。それは体のバランスを崩し、成長どころか健康を損なうことになります。教会の成長は、一人一人が成長してゆくだけで実現するわけではありません。私たちが補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて実現するのです。

<メッセージのポイント>

今日のテキストは私たちにはっきりと「霊による一致を保つように努めなさい」と命じています。霊による一致とはそれぞれの違いを認め合いながら、一つの体として目的にかなった行動をとることができるということです。わたしたちにとって体とは、キリストの体=教会です。この体はただ一致しているだけではなく、人の体と同様に成長してゆきます。教会(体全体)の成長は、私たち一人一人(それぞれの部分)が一致を保ちながら成長することで実現します。

<話し合いのために>

1) 私たちにとって一致とは何ですか?
2) 自分がクリスチャンとして成長することと教会の成長とはどのような関係があるのでしょうか?