June 22nd,- 28th, 2008 Vol.15 No.25
教会(自分)をもっと良く知るシリーズ:エフェソの信徒への手紙より (5)
古い生き方を捨て新しく生きよう (4:17-5:5)
今日はふたつの質問から始めましょう。第一問:あなたは自動車の運転をしますか?第二問:あなたは運転免許証をもっていますか?どちらも手を上げなかった人と、どちらも手を上げた人には問題はありません。しかし一回だけ手を挙げた人はどういうことでしょうか?免許を持っていないのに運転するのは法律違反です。免許を持っているのに運転しないのは・・・・、思い出したくはないでしょうが、その免許証をとるのにいくらかかったか、もったいないですね。ユアチャーチではバプテスマを受けた人に洗礼証明書を差し上げます。それは、持っている人がクリスチャンであることを証明してくれます。でも、免許証を持っている人が必ずしもドライバーであるとは限らないように、洗礼を受けた人が皆、クリスチャンとして歩んでいるかどうかは別問題です。 ドライバーであることは、運転者としての特別な義務、責任を負うことでもありますが、それは何よりも自動車を運転できるという特権です。運転する人は喜んで規則に従うという義務を果たし、運転することによって生活を豊かにするのです。人々は、クリスチャンになると献金をしなくてはいけないのでしょう?日曜日は礼拝に出席しなければいけないのでしょう?と尋ねます。クリスチャンであることも、第一に神様の子供として歩む。という特権なのです。礼拝すること、献金すること、それらは果たすべき責任、義務という側面もありますが、実際のところは特権の一部です。クリスチャンになることをためらっている人はユアチャーチのメンバーに聞いてみてください。かれらは誰も礼拝を第一にすることや献金をささげることを不本意な義務だとは考えていません。むしろ、特権を十分享受するために喜んでしていることだと、答えてくれると思います。 さて、バプテスマを受けたことが、すなわちクリスチャンとして歩んでいることにはならないとしたら、クリスチャンとして歩むということがどういうことなのか?私たちは知っている必要があります。
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。(4:17-19)
私たちは「異邦人」を「神様信じる前の自分」と読み替えて理解してください。このことは、決して神様を信じない人と付き合ってはいけないということでも、神様を信じない人は皆、ふしだらな行いにふけっているということでもありません。 あなたは以前のように歩いてはいけません、と強く勧められているのです。以前は神様に従うということを知らなかったので、自分の考えに従って歩むしか、なかったのです。しかしそこには、自分の弱さ、醜さといった限界があって、神様が与えてくださっている良心には従えずに、かえって欲望に従ってしまうことになりがちでした。そしてそのことがあなたを神様から遠く引き離していました。 そこに戻ってはいけないと、パウロが強く勧めるのは、私たちの自己中心的な欲望は依然として相当手強いものであるからです。
しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(4:20-24)
イエス様との出会いは人生を180度変えてしまいます。私たちは感情や欲望に支配されずに生きられることを発見したのです。クリスチャンとは、イエス様が人生のキーパーソンであることを聞き、それを信じ、彼の体の一部として歩み始めた人です。しかし信じました、バプテスマを受けました、というだけで以前の生き方と決別できるわけではありません。脱ぎ捨てるという強い意志と、心の底から新たにされたいという強い願いを持ち、神様が求める正しく清い生活を送るようにしなければならないのです。それは日々に教えられながら、身につけてゆくものです。神様は礼拝をささげる時、ミニチャーチの人々と共に過ごす時、聖書を読む時、祈る時、日常生活の中でも、あらゆる人、物事を通して教えてくださいます。
後半の4:25-5:5では新しい生き方が実際にどのようなものなのか、捨ててしまうべきものは何で、身につけるものは何なのか教えてくれています。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(26) 悪魔にすきを与えてはなりません。(27) 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。(28a) 悪い言葉を一切口にしてはなりません。(29a) 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。(30) 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。(31) あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。(5:3-4a) すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。(5:5)
怒りをはじめとする破壊的な感情に支配されること、悪い言葉を口にすること、偶像を礼拝すること、十戒で禁じられている行動が、私たちが捨て去るべきことです。それをしようとしないなら、悪魔に隙を与えることになります。怒りという感情自体は中立的なものです。神様の義にかなう怒りもあるのです。しかしそれがどんなに根拠のある怒りであっても、それを持ち続けることを神様は望まれません。そのエネルギーは増幅して、神様の望まれない方法で言動に現れてしまうからです。どんなに正義を掲げても言動が怒りや復讐によってなされるなら決して良い実を結ぶことはありません。笑うのは悪魔だけです。 ここに記されている問題のすべては偶像礼拝者という言葉に集約されます。木や石の像に礼拝をささげる者という表面的なことを言っているのではありません。神様だけを信頼しないで神様以外のものに頼ろうとする者が、偶像礼拝者です。自分の正義、自分の理想、自分の欲望も、神様ではなくそれらに信頼をおくなら、それらはあなたにとっての偶像です。
捨てるべきことについて話してきましたが最後に身につけるべきことについてお話しします。悪いものを捨てても、良いもので満たさなければ意味がないからです。心に隙間が出来れば、いつの間にか忍び込むのは悪いものであって、神様からの良いものは祈りと実践によって獲得しなければならないのです。
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。(25)
25節に真実を語りなさいと書かれていますが、真実とは何でしょう?どんな時にも思っていないことを言ってはいけない、心に思った通りを言いなさいということではありません。病床の友を見舞った時にずいぶん具合が悪そうだと思っても、「いやあ、今日は一段と顔色が悪いね」などという人は一人もいません。そんなことは自分で鏡を見て分かっていることで、あなたからもう一度それを聞かせられるなら、落ち込むばかりです。それはあなたが伝えるべき真実ではありません。その答えはすぐそばにあります。
ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。 (29b)
これが、あなたが語るべき真実の言葉です。クリスチャンは目に見えている事実と神様が与えている真実とが異なることがあることを知っています。また必要に応じて語るということも大切なことです。全ての人は必要に応じて語っていますが、ある人々の場合、その人の必要ではなく自分の必要に応じて語っています。その人の必要に応じて語らなければなりません。
むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。 (28b)
収入を得ることのできる状況にあるなら、誰でも労苦して働くべきです。得た収入で神様の働きが出来るからです
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。(32)
次に、赦しあうことが大変重要なこととしてここに記されています。私たちが赦しあうことができるのは神様が私たちをキリストによって赦してくださったからです。赦すためにはその人の弱さを認めるだけでは不十分です。それでその人を上から見下ろした蔑みの気持ちは消えません。赦す人は自分の弱さも認めます。それで蔑むことはなくなりますが、この段階ではまだ完全な赦しではありません。それは、人間とはなんと愚かな者なのかというあきらめの段階です。このままでは新しい生き方にはつながりません。そこで一番大切なことは、神様が傷ついたあなたを癒し、高く引き上げてくださる、と信頼することです。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 (5:1-2)
愛によって歩むとは、なんとロマンティックな言葉でしょうか?しかしまた自分の現実とはほど遠いとがっかりする言葉でもあります。それはイエス様がしてくださったように、人のために自分を神様にささげる、ということです。クリスチャンの中には「ささげる」アレルギーの人がかなりいます。この言葉を聞くと、犠牲を払い、我慢している自分を思い浮かべて、不幸せな気持ちになってしまうアレルギーです。そのような人には、「ささげる」は「委ねる」と同じ意味だということを知っていただきたいと思います。あなたがたは神様に愛されている子供であって奴隷ではありません。子供を愛する親は子供の必要を満たします。あなたに必要なものは何一つ取り去られることはないのです。全ての人間の勘違いは、神様が私たちに使う権利を与えたものを、所有権と思い込んでしまったことです。神様はその時々のあなたの必要をご存知なので、何かを取り去ることもあれば、何かをあたえることもあります。元々私たちのものではないのですから、自分が大切にしておきたかったものでも、取り去られるものは、なくても大丈夫なもの。与えられるものは、たとえやっかいなものであっても、自分の必要に応えて与えられたもの、と神様を信頼してお任せするのです。イエス様御自身もこうおっしゃっています。
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
そしてこのように委ねて生きるということで、愛によって生きる、与える者として生きるということです。 何度も言いますが私たちは自分の努力だけでそうなれるものではありません。力を出し切ることは大切ですが、その力は神様からいただくものです。私たちにそのために与えられているチャンスがあります。自分の属する体が与えられていて、心から礼拝をささげ、互いに支えあう仲間もいます。自分が出て行って、そこで人々に仕える場所も与えられています。だから、それよりも、感謝を表しなさい。(5:4b) とあるように、この恵みに感謝しましょう。そして良いもので満たしてくださるように祈りも止めましょう
私たちがイエス様を主と信じ従うなら、私たちの行いも変わるのが当然なはずです。行いによって救われるのでは決してありませんが、救われることによって行いも変えられてゆくのです。残念ながら自動的にそうなるのではありません。このことは、私たちがはっきり意識的に悪を避け、善を行うという意志を働かせなければ実現しないのです。なぜなら私たちは依然として罪の世界に住み、私たち自身の罪の性質も残っているからです。私たちは赦された罪人であって、罪のないイエス様と同じになったわけではないのです。そこで神様はその深い恵みによって、わたしたちが聖霊の助けを借りながら、少しずつイエス様に似た姿に変えられてゆくことができる道を用意してくださったのです。道は用意されました。しかし歩くのはあなたなのです。
<話し合いのために>
1) 人は生まれながらに罪人です。それでは救われたクリスチャンは?
2) 自分が捨てるべき言動、身につけたい言動を一つずつシェアしましょう