June 29th,- July 5th, 2008 Vol.15 No.26

教会(自分)をもっと良く知るシリーズ:エフェソの信徒への手紙より (6)
光の子という生き方 (5:6-20)

光が眩しければ眩しいほど、その光に照らされない闇は深いものです。反対の言い方もできます。闇が深ければ深いほど光は際立つのです。聖書は神様を拒絶する人々の心の思いや考えを闇と表現しています。光はもちろん神様の恵みのことです。今日のテキストは私たちに、光の子として歩みなさいと命じています。それがどのようなことなのか?実際にどう歩むのかを考えてゆきましょう。

A. 闇の中の光として歩む (6-9)

1) 虚しい教えの危険 (6-7)

むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。(6-7)

ここではまず、私たちが惑わされて神様からはなれてしまわないように、警戒しなければいけない「言葉」について教えています。虚しい言葉とは、虚しい教えの言葉です。一見人生の道を教える真理のように思える様々な教えの言葉が、この手紙の書かれた時代にも、今の時代にも満ちあふれています。この手紙はクリスチャンに向けて書かれていますが、惑わされる言葉とは、他宗教やオカルトに起源を持つ教えの言葉ではありません。そのように明らかに異質なものに惑わされる心配はそれほどありません。問題はキリスト教的、聖書的であることを装っていて実は福音とは異なる、人間中心の自称キリスト教です。すでにこの時代に、イエス様の律法主義批判を曲解して、律法には全くとらわれる必要がない=何をしてもいいという教えや、逆に極端な禁欲を勧める教えなど、今の時代に見られる異端的教えの原型が多く現れていました。これらの偽りの教えは繰り返し<教会の中に>現れ、異端として排斥されるまで教会の中に悪影響を及ぼしました。  

偽りの教えの出発点は、切り離しては考えられない三位一体の神様をバラバラにして、一つのあり方だけを強調したり、他のあり方を軽視したりすることです。偽りの教えは、元々切り離して考えてはいけないものを切り離してしまったことによって生じた不完全さを補うために、別のものを密かに紛れ込ませます。  

たとえば聖霊の働きを熱心に求めるあまりに、しるしや不思議奇跡だけで心を満たそうとするなら、神様の義や十字架の和解を軽んじることになり、そこに人間的な欲望が入り込むのです。京都でカルト化して、牧師が口にするのもはばかられる罪を犯して逮捕された教会はその典型的なものでした。  

また、清さや正しさを極端に重視するなら、イエス様が嫌われた律法主義が教会にも忍び込みます。そこでは愛による一致が不可能なので、洗脳のような不自然な人間的な手法で人々を縛り付けようとします。この教会を離れたら天国に行けないとか、不幸になるといった言葉が聞かれるならそこは神様の教会ではありません。  

十字架の赦しは福音の中心ですが、神様の義を求めて行動することや聖霊の働きを期待して待ち望むことをせずに、「2000年前の事実」だけに留まっているなら、やはりそこには人間的なものが入り込み、神様の正しさに従えない、聖霊ではなく人間の力に頼る、偽りの教会に変質してしまいます。

 

2) 光の子とされた私達 (8-9)

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― (8-9)

ここで注目したいのは、以前は「あなたがたは暗闇の中にいた」ではなく「あなたがたは暗闇だった」と表現していること、そして同様に「今は光の中にいる」のではなく「光となっている」とされている点です。9節に、神様の光から、あらゆる善意と、正義、真実が生じるとありますが、私たちが闇だったということは単に、悪意や不正義、偽りにさらされていたのではなく、私たち自身が悪意、不正義、偽りをもって悪い影響を人々に及ぼしていたということです。私たちは神様に背を向けていたという意味で「罪人」でしたが、このような意味でも罪人であったわけです。  しかし、今私たちは以前の私たちではありません。主に結ばれて、「光の中にいる」のではなく「光となっている」のです。そして光となっているのだから、光の子らしく歩みなさい、と命じられています。「光の中にいる」のと「光となっている」とでは大変大きな違いがあります。神様の恵みを受けているだけではなく、その光で人々を照らすことができるということです。そこで、ここからは実際にどのように光となるのかについて考えてゆきましょう。

 

B. 光の子は (10-20)

1) 何が主に喜ばれるか知っている。(10-12)

何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。(10-12)

まず、私たちは何が主に喜ばれるかを吟味して、知ることができる存在だということ覚えましょう。だから近づいてはいけない暗闇の業を避けることができます。さらに、私たちは神様に喜ばれる良いことを知り、それを行うだけでなく、悪いことを悪いとはっきりと告発する務めを与えられています。 日本で最初に女性の権利を守る団体としてつくられたのは、日本キリスト教婦人矯風会 (KYOFUKAI -Japan Christian Women's Organization) というクリスチャンの団体です。1886年12月6日、56人のクリスチャン女性によって発足しました。今もDVに苦しむ女性を援助するなどの活動を行っています。彼女たちは、120年前の日本の社会ではとうてい理解されなかった、一夫一婦制の確立、公娼制度廃止、婦人参政権獲得運動など、女性の基本的人権のために多くの妨害にあいながらもたたかってきました。後の売春防止法成立(1956年)を含めて、女性の権利の獲得に大きな力となった人々です。この働きは、暗闇の業を明るみに出すということについて最も良いお手本の一つです。

 

2) 光を伝える (13-14)

しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(13-14)

私たちは呼びかけに応えて立ち上がり、主の光に照らされました。そして光となりました。ここで引用されているのはイザヤ書です。主に60:1-2からですが26:19からも影響を受けた自由な引用です。

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:1-2) 

あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。(イザヤ26:19)

私たちは光源ではありません。神様の光を反射させて輝くのです。ですから、輝き続けることができます。神様は決してその輝きを失うことはないからです。しかし私たちが原因となり人々にこの光が届かないという事態は良く起こります。ふたつの理由が考えられます。角度の調整が悪いか、鏡の面がひどく汚れているかです。伝え方があまり良くないか、自分の心が曇っていて(自分のことで精一杯で)伝えようなどとは思っていないか、ということです。後者であるなら、まずは自分が十分な必要を満たしていただくことを考えましょう。癒され満たされたなら必ずあなたは輝きます。それまでは焦らず、ただ神様の恵みを浴びることを楽しんでください。伝え方の問題は、自分で角度調整をしてみる必要があるでしょう。相手は一人一人違う個性を持った人間です。時によっても人の感情には変化があって一様ではありません。一番いいのは、いろいろ構えずに主の光を浴びて喜んでいるありのままのあなたでいることです。

 

3) 賢く歩む (15-17)

愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(15-17)

賢く歩むことは簡単なことではありません。私たちは賢くはないからです。しかしそのことは、自分が賢いと思っているよりはずっと良いことです。自分が賢くないことを知っているので、神様に御心を求めることができるからです。ユアチャーチの皆さんはどうしたらそれを知ることができるか良くご存知だと思います。 最近はもう、どうしたら神様の御心を知ることができますかといった質問は聞かなくなりました。御心は、待っていたら聞こえてくるものではないのです。ここに書いてある通り、気を配り、状況を良く考え、歩いてみなければ分かりません。正しくない道に迷ったら、引き返し、方向転換をすればよいのです。それに私たちは決して一人で歩いているのではありません。みんなに祈られているし、慰めや、励ましや、知恵をもらうこともできるのです。

 

4) 聖霊に満たされ感謝して生きる (18-20)

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(18-20)

私たちの歩みの燃料はスピリットです。アルコールのスピリットではなく、ホーリースピリットのスピリットです。酔いしれるまでのまなければ満足を得られないなら、依存症と診断されなくても霊的には相当不健康です。結論は、いつもと同じで申し訳ありませんが、心からささげる礼拝と賛美と感謝。やはり、ここに私たちの営みの全ての原点があるのです。

 

<メッセージのポイント>

希望の光の見えない絶望的な状態は、よく闇にたとえられます。聖書はこの闇を照らすまことの光がイエスキリストであることを証ししています。神様の性質のすべてが目に見える形で現されたお方だからです。この光は私たちを輝かせます。私たちは鏡のようにこの光を反射して世を照らすのです。あなたはどこにこの光を届けようとしていますか?どんなに明るい光を受けても、鏡が下に向けられていたり、曇っていたりするなら、それを誰かに届けることはできません。だから私たちは、神様のこの世に対する計画(B1)と自分の役割(B2)をよく知り、聖霊に満たされ感謝しつつ(B4)、賢く(B3)歩みましょう。

 

<話し合いのために>

1) 闇と光とは何と何のたとえですか?
2) 光の子にはどのような特色がありますか?