July 6th,- July 12th, 2008 Vol.15 No.27

教会(自分)をもっと良く知るシリーズ:エフェソの信徒への手紙より (7)
新しい生き方がもたらす新しい人間関係 (5:21-6:9)

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。冒頭のこの言葉こそあらゆる人間関係に必要な態度です。相手がイエス様を信じていない場合でも同じことです。相手が信じていようといまいとイエス様は、あなたの主であると同様にその人の主でもあります。その人がイエス様に対する畏れを持っていないのなら、相手は同じように仕えてはくれませんが、それでも私たちは、その人に最も良いことを、自分が出来る限りするのです。それが仕えるということです。  このテキストを読む時私たちは、聖書が書かれた時代には、現代の女性が勝ち取り、持っている権利や地位は全く認められてはいなかった、ということ考慮して読む必要があります。奴隷ではない、成人した男だけに人権があった時代の制約を聖書は受けているのです。神様は人に理解できる言葉で書かれている聖書をお与え下さいました。そこで聖書は人の言葉で書いてある以上、時代や文化の制約を受ける事は避けることはできません。このテキストは妻と夫の関係をイエス様と教会との関係の類比で教えていますが、現代の夫婦の関係はこの時代とは違っていいのです。もし聖書が21世紀の人向けに書かれていたら、当時の人々は理解することができなかったでしょう。だから私たちはそこから私たちにも語られている普遍的なメッセージを、それが今の私たちにとってどういう意味を持つのかを注意深く受け取らなければならないのです。神様はすべての人をあらゆる違いにかかわらず尊いものとして作られました。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27) これが男と女についての聖書の最初の記述です。その次は2章に出てきますが、ここは読み方によっては女性を第二の性として扱っているかのように思えます。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:22-24) しかし24節まで読むと二人は一体となるとあります。妻が夫の一部になると書いてあるわけではありません。つまり23節の創造の技術的な説明であって、優劣を言っているわけではないのです。

A. 妻と夫の新しい関係 (5:21-33)

1) 互いに仕えあう関係 (21-29)

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。(21-29)

互いに仕え合いなさいといっている冒頭の言葉に従うなら、それ以下の部分は、妻と夫を入れ替えて読んでもアーメンというべきです。私たちは互いに仕え合います。主従関係ではないのです。従従関係なのです。お互い相手を自分の主と見るべきなのです。それは夫婦の間だけの事ではありません。そして、私たちは互いに仕えあう事によって、実は本当の主、主の主であるイエス様にお仕えすることになるのです。

2) イエス様と教会の関係に学ぶ (30-33)

わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。(30-33)

この創世記からの引用の言葉が「イエス様と教会とについて述べている」という事は、私たちが互いに愛し合い、仕え合う時に、私たちとイエス様との関係を土台として、そうするべきだと受け取ることができます。イエス様はわたしたちを愛されるので、天の御座から離れ、私たち(教会)と一体となってくださいました。イエス様は私たちにとって確かに主、頭ですが、私たちは互いにどちらが頭かと争うことはできません。頭はイエス様だけだからです。  この部分を「妻は夫を自分のように愛する必要がなく、夫は妻を尊敬する必要はない」と受け取ってもよいと思う方はいらっしゃいますか?そのように考える人はいないと思います。それは健全な理解です。尊敬のない愛も、愛のない尊敬もあり得ないからです。  最初に、聖書を読むときはその時代の社会的背景を注意して読みましょうと言いましたが、中にはそのままで通用する言葉も沢山含まれています。パウロの言葉は時代の制約の中で、女性が当時の社会的地位に甘んじているべきだ、とも読める部分も多くありますが、彼が男尊女卑の人であると断じてはいけません。彼は、「キリスト・イエスにあって男も女もない」(ガラテヤ3:28) という普遍的な真理も知っていた人なのです。  夫婦の間には違いがあります。それは育ってきた環境の違いです。それによって私たちの持つ価値観はずいぶん違うのです。同じ国に生まれた者同士であっても、違いは相当なものです。日本では、厚生省の調べで結婚した夫婦のおよそ1/3が離婚するそうです。離婚申立で一番多くあげられるのは男女ともに「性格の不一致」です。しかし性格が一致する夫婦などどこにもいません。それでも関係を良好に保つ方法は「互いに仕え合う」ことしかないのです。

B. 子と親の新しい関係 (6:1-4)

1) 子へ:父と母を敬いなさい(1-3)

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。(6:1-3)

ここにいるすべての人はまだ親ではないかもしれませんが、誰かの子でない人は一人もいません。クリスチャンとなって、あなたと親との関係はどう変わりましたか?皆さんの中には親がクリスチャンである方も、そうではない方もおられますが、親子関係の解決しなければならない問題はどちらの場合でもあるのです。ここでも「互いに仕え合う」の原則が有効です。皆さんの親が神様を認めない人々であっても、私たちは、イエス様に仕えるように彼らに仕えます。問題は彼らが決してイエス様のようではないという事です。そこで私たちは、聖霊の助けなしに、仕え続けることはできないのです。

2) 親へ:主がしつけ諭されるように育てなさい。 (4)

父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(6:4)

親は、権威者であるべきです。もちろん子供はあなたの奴隷ではありません。皆さんの周りでは、そのように子供を扱う人はほとんどいないでしょう。けれども反対に、子供の奴隷となってしまっている親はよく見かけます。「怒らせてはなりません」というこの言葉を誤解すると、わたしたちは子供の奴隷となってしまいます。しかし子供の奴隷となってはいけません。子供が決して怒らないように、その要求を最大限、聞いてやっていたら、その子は、何でも自分の思い通りになる事が当然だと考える人になります。それでは、その子が将来、幸せになれる見通しはなくなってしまいます。小さな挫折や、苦しみ、悲しみを通して私たちは成長します。子供に意地悪して、わざわざ障害物を目の前においてやりなさいという事ではありません。それこそ無益な怒りを子供に植え付けることになってしまいます。 しかし、障害は親が用意してやらなくても、日常生活の中でいくらでも遭遇するものです。そこで忍耐する事、犠牲を払う事を教えてやれるのは、親をおいてはいなのです。  ではどのように、子供をしつけたらよいのでしょうか?後半の部分に答えがあります。イエス様が、しつけ諭されるように育てなさい、という事です。怒らせてはならないという言葉の原語のニュアンスは、大きなフラストレーションを溜め込ませてはいけない、といったものです。どうしたら子供はフラストレーションを溜め込むのでしょうか?それは第一に叱る基準に一貫性がないときです。同じことをしても兄弟は叱られず自分だけとか、他人の前では叱られても、人がいない時には叱られないとか、親の気分によって叱られたり、叱られなかったりではフラストレーションがたまります。第二に、親が自分の都合で叱っているなら、たとえそれが一貫していても、子供はそれを見抜きます。第三に、これが最悪なのですが、自分も出来ないことで子供を叱る事です。親がいがみ合っているのに、兄弟仲よくしなさいといったところで、子供にはなんで叱られるのか理解できないでしょう。親のしている通りにしているのですから。  「子供を怒らせてはいけない」ということから、叱るのではなく、どんな時でもそれがなぜいけないかよく説明して諭さなければならない、と誤解している親も良く見かけます。子供がどうしても納得できない時によく説明してやる事は必要です。しかし、いちいち納得できる理由がなければ従えない、というのでは人生の危機に正しく対応できない人に育ってしまいます。  イエス様の教育には一貫性がありました。不正や偽善に対して厳しい方でしたが、自分自身を人々のために犠牲にすることを惜しまない方でもあったのです。弟子たちでさえ、時にはひどく叱られて落胆した事もありましたが、イエス様の絶対的権威を、嫌々ながらではなく喜んで認めていたのです。弟子たちは、多くの場合イエス様の命令に、いちいちなぜですか?とは聞いていません。イエス様には、心から従いたいと思わせる権威があったからです。皆さんは、神様のなさる事に、なぜ?と、戸惑うことがあっても、理由が分かるまでは従いたくはありません、とはいわないと思います。  親にも権威があります。イエス様から委ねられた権威です。「親の権威」は自分の優位性(体力的、経済的、知識的などの)によるものではありません。このような優位性には限界があります。親がいつも正しい判断が出来るわけでもないし、体力的優位性は10数年で逆転します。他のものにしても遅かれ早かれ追いつかれ、追い越されるのです。そうではなく、神様が愛される一人の人が、独り立ちできるまで、その養育を委ねられた、イエス様の代理人としての権威です。子供たちを、イエス様が私たちになさるように必要な時には厳しく、優しく、また献身的に育てましょう。

C. 友人や同僚との新しい関係 (6:5-9)

1) あなたが従うべき人との関係(5-8)

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。(5-8)

私たちは上司や先生の奴隷ではありませんが、親の権威を離れてもやはり様々な権威の下にあるという意味で、私たちはこの部分に学ぶ事が多いのです。私たちは彼らの奴隷ではなくても、キリストの奴隷です。真心を込めて主に仕えるように仕えるのです。しかしそれでは、どんな事でも神様の命令として受け取らなければいけないという事ではありません。心から「神様の意思」を行いなさいと命じられているのですから、彼らの言動が神様の意思に反する時、私たちには異議申し立てをすることができるのです。ただそれは、自分の利益のためだけに、いたずらにするべきものではありません。

2) あなたに従う人との関係 (9) <メッセージのポイント>

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。(9)

「パワーハラスメント」という言葉が日本でも聞かれるようになりました。それは、相手より高い地位、権力を利用して、不当に相手を肉体的、精神的苦痛を与える行為です。やっかいなことに、優位に立っている者がそれをハラスメントだとは思わず、権威者として支配者として当然の事だと考えているが多いのです。そこには目に見える基準がありません。優位な位置にある者が、どういうつもりでそのような言動に及んだかという事は言い訳にはなりません。ただ相手が「どう感じたか」が問題なのです。そのような意味では私たちは皆、パワーハラスメントの加害者になる可能性を持っています。どれだけ相手の気持ちになれるかが問題です。想像力を働かさなければなりません。助けになるのは、私たちが主を見上げることです。不本意にも相手を傷つけてしまうことは、完全には避けることはできません。そのような時には心から赦しを請えばよいのです。反対に、あなたが上に立つ者の謝罪を受け入れて赦さなければならないという事もあるのです。  どんなに違いがあっても、自分も相手も同じ主に仕える僕仲間であることを忘れずに、互いに仕え合いましょう。

メッセージのポイント

社会問題や事件の背景には、必ずと言っていいほど人間関係の問題があります。青少年の引き起こす犯罪には、その両親の関係、親子の関係が深く影響を与えています。神様は、私たちの持つ人間関係のすべてを、根本的に革新するためにイエス様をこの世界に送ってくださいました。イエス様を主と信じ彼に従って歩んでゆく者は皆、実り豊かな新しい人間関係を手に入れることができます。すべての関係の要はあなたと神様との関係です。この関係が正常でないことが、あらゆる人間関係に悪影響を及ぼします。今の人間関係に満足できないなら、まずするべきことは神様との関係を再確認することです。

話し合いのヒント

1) あなたは誰との関係に問題を感じますか?

2) 奴隷制度のない今、主人と奴隷の関係についての教えは、どのような意味がありますか?