July 20th,- 26th, 2008 Vol.15 No.29

明日はバプテスマ!

A. どのような意味があるのですか?

1) ヨハネのバプテスマとの違い

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。(マルコ1:4-5)

イエス様が宣教を始める以前に、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)がヨルダン川でバプテスマを授けていました。それは人々が罪を悔い改めたということを公に表わすバプテスマです。人々はヨハネのところにやってきて、まず自分の罪を告白し、それからヨハネからバプテスマを授けられたのです。ですから、「罪の赦しを得させるために」と書かれていますが、その意味は彼のバプテスマによって罪が赦されるという意味ではなく、罪を赦される前段階の「悔い改めに導く」バプテスマなのです。

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタ3: 11)  

ヨハネは、自分のバプテスマの限界を知っていました。そして、そのあとすぐに現れるイエス様のバプテスマが、悔い改めのしるしであるだけに留まらず、イエスキリストを信じる信仰によって赦しを得たことを表わす完全なものであることを予告したのです。<聖霊で>ということは私たちが受けるバプテスマには人の手で施される儀式以上の意味、神様が、キリストの体に連なる人々を用いてなさるということです。そこで私たちは「父と子と聖霊の御名によって」バプテスマを授けます。  それでは<火で>とは、どのようなことを意味しているのでしょうか?火は精錬する火です。体の外側の汚れなら洗い流すことができますが、体の中に染み付いた汚れはそうはいきません。不純な金から不純物を取り去って純金にするためには、表面を洗い流すのではなく火で溶かし精錬されなければなりません。旧約聖書の時代には、異邦人がユダヤ教に改宗する際に穢れを取り除くために、自分で水の中に入り、穢れを洗い流すことを象徴する儀式を要求されました。しかしイエス様も、バプテスマのヨハネも、そこには本当の救いはないことを知っていたのです。神様は私たちを火で精錬するように純粋な者に変えてくださいます。それはクリスチャンの一生をかけたプロセスであり。バプテスマは、私はそのプロセスを始めますという決心を人々の前で明らかにすることなのです。

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタ3: 13-14)

イエス様はご自分の宣教を始めるにあたって、ヨハネのバプテスマを受けられました。もちろんイエス様には悔い改めるべき罪はありません。ヨハネも当然、それを思いとどまらせてこういったのです。 しかし、このことこそ徹底的に罪深い人間の側に立ってくださるイエス様の宣教のスタートにふさわしいことだったのです。イエス様は強いてヨハネからバプテスマを受け、悔い改めることの大切さをアピールされたのです。しかしイエス様がバプテスマを受けられた時に特別なことが起こりました。そのことについては後ほどお話ししたいと思います。

その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。(ヨハネ3:22-23)

実はイエス様がバプテスマを授けていたことが書かれているのは、聖書の中でこの部分だけなのです。しかも次の4章では早くも弟子たちに、バプテスマを授けることを任せていたことがわかります。

2) 古い自分が死に、新しい自分が誕生すること

私たちの受けるバプテスマの「洗礼」という日本語は正確な訳とはいえません。バプテスマという言葉はギリシャ語で水に浸す、という意味の言葉で、洗うというニュアンスではないのです。水に浸されるというのは、むしろ「古い自分が死に新しい人として生き始める」という意味を持っています。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:3-4)

イエス様は私たちの身代わりとして十字架にかかられました。つまり御自身がではなく、罪に定められた私たちが葬られるためでした。そしてよみがえられたのは、私たちが新しい命、永遠の命を得るためでした。

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。(Tペテ 3: 21)

ここに記されているように、わたしたちはバプテスマを受けるという行動によって洗われてきよくなるのではなく、ただ罪の奴隷という身分から、神の子という身分に変えられるのです。残念ながら、私たちの心と体がその身分にふさわしい者に変わってしまうわけではありません。ですからバプテスマは「私は、いただいた神の子の身分に少しでもふさわしく成長できるように願い続ける者となります」という決意表明でもあるのです。

3) バプテスマと聖霊に満たされること

さきに、イエス様がヨハネのバプテスマをお受けになった時に特別なことが起こったといいましたが、そのことについてお話ししたいと思います。福音書のふたつのテキストから見てゆきたいと思います。

わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。(ヨハネ1:33)

イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。(マタ3: 16)

聖霊が降ってこられ、イエス様御自身もバプテスマのヨハネもここでイザヤ書11章の預言が成就したことを悟りました。それはイエス様以前にヨハネのバプテスマを受けた者には起こらなかったことでした。けれども私たちはイエス様に続く者として、イエス様のバプテスマを受ける者として、聖霊に満たされることを期待してよいのです。実際には、私たちにとっては水のバプテスマを受けることと聖霊に満たされる事は時間的に前後する場合が多いようです。使徒言行録にはその両方の例が記されています。

B. なぜ信じたらバプテスマを受けるべきなのか?

1) イエス様が勧め、教会が勧めているから

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(マタ28:19)

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒言行録2:38)

バプテスマはイエス様が使徒たちに授けることを命じたことです。そして使徒ペトロはそれを守って人々に勧めています。私たちにはこれを断る理由がありません。イエス様は天国行きの切符をすべての人に与えたいと思っておられますが、もっと願っておられるのは、あなたがイエス様の弟子となることであり、聖霊の賜物を用いて弟子として生きるということです。なぜならイエス様は天国行きの切符をあなたに配らせたいと願っておられるからです。バプテスマを受けることの意味は、新しい身分を得たことを自覚し、公に告白することですが、その新しい身分とは、神の子という者であると共に「イエス様の弟子」というものでもあるということです。

2) キリストの体の一部として受け入れら共同体のメンバーとなるため

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(1コリント12:13)

バプテスマを受けるべきもう一つの理由は、それが目に見える教会の、私たちにとってはユアチャーチのメンバーとなる事を意味しているからです。つまりバプテスマを受けることは「私はユアチャーチのメンバーとなってイエス様に私の人生をささげます」という決意を表わすことです。 バプテスマは個人の魂の救いだけを意味しているのではないのです。この礼拝後、明日バプテスマを受ける方々は、ニューライフクラスの最終回として、ユアチャーチカヴェナントについて学びます。ユアチャーチでバプテスマを受けるということは、特別な場合を除いてはメンバーになるということが原則なのです。なぜならクリスチャンは誰でも例外なく、目に見える教会の責任あるメンバーとして連なることを求められているからです。 バプテスマを受けることを先延ばしする正当な理由は多くはありません。 例えば、あなたが未成年であって両親が賛成してくれない時、あなたの配偶者がクリスチャンではなく賛成してくれないときなどです。誰かの意見を押し切ってそうすることが、その誰かの救いを遠ざけるなら、神様は「待つこと」を喜んでくださると思います。そのような理由でバプテスマを受けていなかったとしても、メンバーとしての自覚をもってイエス様に仕えているなら、バプテスマを受けていないことによるハンディーキャップは何もありません。

メッセージのポイント

イエス様は信じて従う者にバプテスマを受けることを勧めておられます。バプテスマは自分の信仰を公に言い表すための儀式です。神様に背を向けて歩んできた自分は死に、神様と共に生きる新しい自分が誕生するということを、いったん水に沈められ、そこから立ちあがることで象徴しているのです。聖餐式が単なる形だけの儀式ではなく、聖霊がそこに働かれ実際に主の血と体にあずかるときであるのと同様に、バプテスマも単なる形だけの儀式ではありません。そこで実際に聖霊が豊かに注がれ、古い罪の人が死に、新しい神の子供として、ふさわしい実をみのらせる者として、わたしたちを実質的に生まれ変わらせます。

話し合いのヒント

1)あなたはどのようにしてバプテスマを受ける決心をしたのですか?
2) 心で信じているだけで、バプテスマを受けていないなら天国に行けないのですか?