August 3rd,- 9th, 2008 Vol.15 No.31

詩編に学ぶクリスチャンライフシリーズ (2)
主を避けどころとする人

先週、神様に従う生き方と背く生き方という二つの対称的な人生についてお話ししました。今日は、神様に従って生きる人は、何が起こっても絶対に安全な避け所を確保している、ということについてお話しします。

A. 自分を神とするなら、真の王に対する反逆者となる

1) 自分を神とするなら、真の王に対する反逆者となる (1-3)  

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。(1) なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか(2) 「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。(3)

この世界に目を向けるなら、いつでもどこでもここに記されていることを見ることができます。神様に支配されることを望まず、自分が神様のような支配者になりたいと思うことは、私達の罪の性質からすれば当然のことです。しかし、そのように生き方は、実は、何にも支配されていない生き方なのではなく、罪に支配されている生き方に他ならないのです。  それはもっと突き詰めていうなら、主の支配を望まない人は、自分は王のつもりでも、本当の権威は悪魔に握られている傀儡の王に過ぎないということです。そして、それは世界に対して正当な権威を持つ神様に対する重大な反逆です。

2) 反逆者に対する神様の裁き(4-6)  

天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り (4) 憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。(5) 「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」 (6)

神様に背を向けて歩んでいる人の多くは、自分の生き方がそれほど恐ろしいものだと思ってはいません。誰にも支配されないで自由に生きたい、そのような願望を持つ事は当然の権利だと信じています。聖書は決して、あなたには何の自由もありません、支配されたくないと考えてはいけません、と教えているのではありません。むしろあなたは、完全な自由を求める権利があり誰にも支配されてはいけません、と教えます。ただし、それは神様の意思・支配に従うことによってのみ実現することです。  神様を恐れずに、人々の上に君臨する野望を抱く人々は、イエス様が地上に来られる前も後も今に至るまで現われ続けています。彼らの最後がどのようなものであったかを、皆さんは良くご存知です。ほとんどの場合は、暗殺されるか処刑されるか自殺するかで生涯を閉じています。誰一人として自分の帝国を永遠のものとすることができた者はいないのです。  それは彼らが皆、創造者である神様の意思にかなわない者であったので、神様は彼らが世を支配し続ける事を許されなかったからです。神様が地上の王を認めるとすれば、それは真の権威、神様の権威に服す王です。  ここで神様は、後にも先にも他にはない唯一の王を即位させると宣言しています。それは御自身であり、人の目にはイエスキリストという一人の人として現われたお方です。

B. 主こそ真の王

1) 真の王に対する預言 (7-9,ルカ3:22, 9:35, 使徒13:33)

主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。(7) 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。(8) お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」 (9)

ここに記されている「今日」という特別な日を、世界は2000年ほど前の世界で最初のクリスマスまで待たなければなりませんでした。イスラエルの人々はダビデのような王をメシアとして待ち望んでいましたが、神様はもう誰かを送るのではなく、御自身がイエス・キリストとして即位なさいました。このことがどう実現したかを少し新約聖書から見てゆきましょう。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:21-22)

ある人々は神様が御自身ではなく、一人の人間に過ぎない「ナザレのイエス」を選んだのだと出張します。聖書にはイエス様を人の子と表現している所もありますが、神のひとり子とも表現しています。それはイエス様が人間や天使とは全く異なる方だからです。一方で聖書は、神様は唯一の方であると言い切っています。

わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。(使徒言行録13:32-33)

イエス様を神様と認めないのにキリスト教を自称するカルト、エホバの証人は三位一体という言葉は聖書にないのだから、そのような考えはおかしいと主張しますが、聖書の中の父、子、聖霊についての全ての記述の整合性を求めるなら、後の神学者が三位一体と表現した理解にゆき着くしかありません。それはカトリック教会も東方正教会もプロテスタント教会も共に真理と信じている事柄です。キリストの体としての一つの体としての教会の範囲はこれらの三位一体と主イエスの十字架による罪のゆるし、復活を信じている教会ということになります。

すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。(ルカ9:35)

ペトロはイエス様が山で祈る時にヤコブ、ヨハネと共に同行を許され、この神様の声を聞きました。この時ペトロは、イエス様が普段とは全く異なる神々しいお姿でモーセ、エリヤと語り合うのを見てわけが分からなくなり、自分でもよくわからない事を口走った時に、神様はこう声をかけられたのです。神様に従って歩みたいけれど、神様のなさる事は自分の想像を超えていてわからない。そのような私たちに対して神様は「イエス様に聞きなさい」と命じておられるのです。イエス様の「私は道であり真理であり命である。私を通らなければだれ父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14章)という主張は、高慢な人間の言葉ではなく、ルカ9章に一致する、父と一体の神、救い主イエスの言葉なのです。

2) 正しい王として主に仕える (10-12)

すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。(10) 畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。(11) 子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。(12)

私たちは皆、主にその身分を保障された王なのです。皆、それぞれに与えられた物事を正しく治めるために立てられている者なのです。あなたが、あなたの主である神様に従っている限り、あなたを滅ぼす事は誰にも出来ません。そのような意味で、神様はあなたの完全な避けどころです。しかし、そこから迷い出るならば、敵の攻撃によって傷付くことがあるでしょう。私たちはどこが安全なのかを知っていながら、迷い出てしまう傾向を持った存在です。しかし痛い目にあった時に、逃げ込むべきところを忘れていないなら、まだ救いはあるのです。  自分やイエス様以外のものを主とする生き方に幸いはありません。幸いを求めるなら、主を避けどころとする人になりましょう。

メッセージのポイント

神様の秩序に逆らうのは、人間の罪(神様に背を向けている状態)の性質を考えれば、驚くようなことではありません。しかし、この神様に対する反抗は誰にも幸いをもたらしません。2000年前、神様は目に見える主としてイエス様を世界に送ってくださいました。それは私たちに、仕えるべき本当の王に立ち返るチャンスを与えてくださったということです。自分やイエス様以外を主とする生き方に幸いはありません。幸いを求めるなら、主を避けどころとする人になりましょう。

話し合いのために

1) 主に油を注がれた者とは誰ですか?
2) イエス様を知る前、あなたの避けどころは何でしたか?