August 10th,- 16th, 2008 Vol.15 No.32

詩編に学ぶクリスチャンライフシリーズ (3)
極限でも働く信仰
詩編第3編

A. このような時でもあなたの信仰は働きますか?

1) ダビデを襲った苦難 (1-3)

【賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ (1-3)  

ダビデはイスラエルの歴史上最も尊敬された王です。彼の生涯は、旧約聖書サムエル記に描かれています。サムエル記は上下に分かれている長い物語ですが、物語の形式で、登場人物もそれほど多くはないので予備知識がなくても興味深く読めるものなので、旧約聖書は分かりにくいなと思っている方はぜひ夏休みの課題として読んでみてください。聖書の理解がぐっと深くなります。聖書が信頼に足る文書である一つの証拠は、登場人物を理想化せずに良い所も悪い所も率直に描く所です。ダビデは旧約聖書のキーパーソンの一人ですが、私たちと同じように欠点があり、失敗し、罪を犯し、苦境に陥りました。ですから彼がその苦境にあってどう神様に願い求めたのか、なぜ苦境を乗り越えられたのかということから、私たちは多くを学ぶことができます。  ここでのダビデの苦境はサムエル記下15章以下に記されている出来事です。実の子アブサロムの反逆に多くの者が同調し、ダビデはエルサレムの都から逃げるしかありませんでした。アブサロムは王家にとって問題の多い王子でしたが、ダビデは彼を愛していました。彼は愛していた息子に地位を追われ、命も狙われていたのです。ダビデは王としての最大の危機と、父親としての深い悩みと悲しみを同時に味わっていました。何を奪われるよりも多くの人が自分に敵対する事は辛い事です。しかも愛する息子が先頭に立って敵対しているのです。多くの人々が「ダビデは神様から見放されてしまった」と言っているのが彼の耳にも届いていました。それがダビデのおかれている状況でした。

2) あなたにも苦難のときがある (8-9)

このような時にダビデは、どのような祈りをささげたのか、8−9節を読んでみましょう。

主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ (8-9)

これは祈りというより懇願です。なんとかこの状況から私を救い出してくださいという必死な願いです。あなたにはこのようの神様に叫び求めなければならなかったときがあったでしょうか?ダビデほどの苦境を味わう人はそれほど多くはないでしょうが、この社会の中で毎日起こっている恐ろしい災いは、もしあなたが当事者であったなら、と想像してみるならダビデの叫びは共感できるでしょう。この世界に生きている限り、誰も災いを避けることはできません。ダビデがこのような時にも、嘆きや叫びと共にこのように祈れた事は神様の恵みです。そしてこの恵みはあなたにも与えられているのです。  今週15日は終戦記念日です。その日まで日本はドイツのように独裁者の支配する国ではありませんでしたが、軍が実権を握り、多くの人々が素朴に敬愛していた天皇を利用して支配している国でした。この戦争の間も、名目上信仰の自由は認められていましたが、クリスチャンは事実上迫害されていました。支配者たちは、天皇はカミであり、このカミのために国民は喜んで命を投げ出す事が国民の義務だと教えました。クリスチャンはイエス様にその命を捧げた者です。天皇に命を捧げることはできません。私たちクリスチャンにとっては、聖書の神様以外に神はないことを譲らず逮捕され、獄死したクリスチャンがいた事を憶える日でもあります。しかし正直に言っておかなければなりませんが、大多数の教会は権力に迎合して、妥協的な態度を取り「偶像礼拝」である宮城遥拝(どこにいても皇居の方を向いて敬礼する事)が君が代斉唱、国旗掲揚とともに礼拝の中でも行われていたのです。キリスト教会の代表が伊勢神宮の参拝まで行いました。しかも、そのような偶像礼拝を占領していた朝鮮半島や台湾のクリスチャンにも強要したという汚点が私たちの歴史にはあるのです。  その時代に投獄された牧師の事を、後に牧師となった息子が書いている本を読んだことがあります。お父さんが投獄されたとたんに、それまで熱心だったメンバーたちは教会に来なくなり、親切だった人々が手のひらを返したように冷たくなってしまったそうです。お父さんは獄死して残された家族は食べる事にも大変困ったそうですが、かつて教会のメンバーだった人々は誰も手を差し伸べてはくれなかったそうです。著者は子供ながらに衝撃を受けて「教会って何なのだろう?」と思ったそうです。信仰者である父がその信仰のために非国民とされ、犯罪者とされ、命を奪われてしまった上に、兄弟姉妹と呼び合っていた人々の豹変を見せつけられた少年の信仰はどうなってしまったのでしょうか?しかし、彼はどんなに人に裏切られても神様に対する信頼を失いませんでした。そして、本当の教会を立て上げようと思ったのです。彼のいう本当の教会とは、調子の良いときだけ通用する信仰者の集まりではない、十字架や聖書がアクセサリーではない、何があってもイエス様に従ってゆく人々の集まりです。残念ながら日本には、時流に抵抗する教会は起こりませんでしたが、ドイツでは、そのような諸教会が集まりナチスに抵抗しました。ユアチャーチも大変な時にこそ神様だけを信頼して進んでゆく教会になりたいものです。

B. どのような信仰が最悪の事態でも通用するのか?

1) 神様だけが決してあなたを見放さない方であることを知っている(4-6)

主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。(4-6)

ダビデがおかれた状況は、神様に対する信頼なしには耐えることのできないものでした。そのような中で、「それでもあなたは私の盾、私に栄えをもたらす方、うなだれる私の顔を引き上げて下さる方、声をあげれば必ず聞いて下さる方」だと信頼しています。 ダビデの生涯は波乱に満ちていました。羊飼いの少年だったダビデも、既に王宮の豪華なベッドで寝ることにすっかり慣れていました。しかし今、息子の軍勢の襲撃を恐れながら、眠りに就かなければなりません。しかし主に信頼をおく人は眠ることができます。主が支えていて下さるからです。 もちろん神様は人を用いてあなたを助けます。しかしその人もあなたと同じように限界があり、傷付き倒れる事もあるのです。どんなに強力な人の助けであってもその背後に神様の手があることを忘れてはなりません。その人を通しての助けが途切れたとしても、神様は別の方法で支えられるのです。 つい、人の助け、財産の備え等、目に見える支えを求めがちな私たちですが、ダビデのようにまた投獄されたペトロや戦時中のクリスチャンたちのように本当の支えとなるのは神様だけだという事を知っているなら、私たちは決して絶望することはありません。

2) 神様だけが解決方法を持っておられることを知っている(7)

いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。(7)  

ダビデがこのような中でも、「決して恐れません」と言っているのは根拠のない強がりではありません。神様は私と共におられるという確信があったのです。神様がダビデと共におられたのは、彼が正しい人だったからでも、正統な王であったからでもありません。多くの罪を犯し、失敗をしてきた人です。忠実な部下を故意に戦死させ、その妻を奪うことさえした人です。しかし彼は、失敗のたびに深く悔い、神様の憐れみを願いました。ダビデもまた、イエス様がたとえではなされた放蕩息子(ルカによる福音書15章)であり、そのお兄さんのような者ではなかったのです。  サムエル記を読んでみると、少数ながらダビデを助ける人々がいたことがわかります。皆さんがダビデの立場にいるとしたらそのような人々はどこにいるのでしょうか?それはここで共に礼拝をささげている人々です。私たちは皆互いに、そのような者としてユアチャーチに招かれています。私たちは実際に助け合う事ができます。祈り合うことができます。家庭では、職場では学校では孤立無援のようでもあなたは支えられています。神様の支えとは抽象的なものなのではなく、実際にキリストの体を構成する人々の支えとして存在するのです。ですからあなたには、あなたのダビデが苦境に陥った時、多くの人が彼を去っても共に立っていていただきたいのです。ただそれは、その人のいう事を聞いてあげるという事ではありません。時には預言者ナタンのようにダビデを厳しく叱り、目を覚まさせなければならないときもあるのです。厳しい言葉を受け入れてもらうためには普段の信頼関係が重要です。それを養うのはミニチャーチのような交わりです。牧師が礼拝とミニチャーチをいつも強調するのはそのためです。

 

メッセージのポイント

どんなにひどいことが起こっても、神様は決してあなたを見放されたのではありません。誰一人、自分の側に立ってくれなくても神様はあなたの側に立ち続けてくださいます。全世界が罪に屈服したかのように見えてもあきらめてはいけません。決して道が閉ざされることはありません。あなたの神様は全知全能のお方であり、あなたに永遠の命を約束された方なのです。

 

話し合いのために

1) ダビデ王に何が起こったのですか?
2) こんなことが起こったら私の信仰はどこかにいってしまう、と思うことがありますか?