September 7th,-13th 2008 Vol.15 No.36

コリントの信徒への第一の手紙より(昨年10月からの続き) 本当の愛を知る(3回シリーズ)(1) (第一コリント12:31b-13:13)
いちばん大切なこと(12:31b-13:3)

A. 愛は私たちの知るべき最高の道です (12:31)

直前の部分を学んだのは1年の近く前のことですから、どのような経緯でパウロがこのように言っているのかを思い出しましょう。コリントの教会はそれぞれに異なった様々な賜物が豊かに与えられていて、活動的な教会で目覚ましい神様の働きが現われていました。しかしバラバラで調和に欠けていたのです。パウロはお互いを結び合わせ、調和して働くために必要な、人の体で言えば神経に当るものを教えたかったのです。それは「愛」です。そこでパウロは、こう語りました。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(1) たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(2) 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(3)

私たちを結び合わせるのは愛です。神経が正常に働かなければ、どんなに一つ一つの部分が優れていても体が正常に機能しないように、愛がなければ人と人の間に調和は保てないのです。

 

1) 愛とは与えること

愛がどのようなものかということは、次回に詳しくお話しする予定ですが、愛の本質についてふたつの重要な点を、今日のお話しの前提として取り上げておきたいと思います。第一のことは「愛とは与えること」だということです。誰かの必要のために自分の能力や労力や時間や持っているものを喜んで与えることです。喜んで犠牲を払うともいえます。ところが多くの人は、愛は受け取るものだと思っています。愛することではなく、愛されることを願うのです。誰かが自分のために何かをしてくれることで、自分の内側にある心の飢え渇きを満たされると考えています。しかし、この方法で心が満たされることはありません。それでは、どうしたらあなたの心は満たされるでしょうか?それはより多く得ようとすることをやめ、より多く与えることです。信じられませんか?

2) 愛とは見返りを求めないこと

愛について信じられないことはそれだけではありません。もうひとつの重要な点も信じ難いことです。それは、「愛は見返りを求めない」ということです。誰かのために一生懸命働く人は珍しくありません。気前よく自分のものを与える人もいます。しかしどんなに与えても、何か見返りを求めているならもうそれは、愛ではないのです。  私自身もイエス・キリストを知るまでは、見返りを求めず与えることなんてあり得ないと思っていました。これらのことを私に教えてくれたのはイエスキリストです。私が22歳のときでしたが、その時から私の心は、何が手に入らなくても満たされています。普通は与える一方なら、不足を感じそうなものですがそうではないのです。与えれば与えるほど神様が私の心を良いもので満たして下さることを経験し続けてきました。イエス様は言葉でそれを教えたのではありません。最初にイエス様御自身が、何の見返りも求めずに愛して下さったのです。私の罪を赦すためにご自身の命を犠牲にして下さったのです。それがイエスキリストの十字架の出来事です。

 

3) 愛は道?

パウロは「最高の道を教えます」といいました。「最高のもの」は何かということを教えてあげようとは言いませんでした。今日私たちが学ぶべき重要なポイントはふたつありますが、その一つが、この「愛は道」だということです。あなたが歩む人生という意味での道ということです。しかもパウロは「あなたが知るべき最高の道」と表現しています。そこで今までの部分をまとめていうなら、「あなたが最高の人生を送りたいと思うなら、見返りを求めず与え続けなさい。」ということです。道には行き先があります。あなたが散歩をしているのでもなければ、その道がどこに向かっているかを考えて、右に行くのか左に向かうのかを決めるのです。人生は選択の連続だと言ってもいいでしょう。最高の目的地にたどり着きたいと思うなら、注意深く愛の道を選び取ってゆかなければなりません。イエス様が地上におられた頃からローマ帝国は強大化して、すべての道はローマに通じるとまで言われました。しかし神様の国に向かう道はたった一つしかありません。愛は、そのたった一本の道です。

 

B. どんなに良いことも、そこに愛がなければ意味がない (13:1-3)

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(1) たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(2) 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(3)

1) 良い行いのようで愛のない行い  

今日私たちが学ぶべき第二のポイントは、どんなに良い行いも愛が伴わなければ意味がないということです。私が子供だったころ、良くおじいさんの肩を叩いてあげたり、お手伝いをしてあげたりしたことを覚えています。周りの人々はいい子だと誉めてくれました。しかしこれは愛のない行為でした。彼を嫌いではありませんでしたが、聖書の基準からみるなら彼を愛していたとは言えなかったと思います。なぜだと思いますか?私が喜んでそれをしましたが、彼のためというよりはそれをすることでもらえるお金のためにしていたからです。コリントの教会には争いがありました。キリスト派、パウロ派といったグループさえ存在したようです。もちろん、イエス様やパウロがつくったのではありません。争い合っている人々が自分の権威付けのためにイエス様やパウロ、ペトロの名を使ったのです。 「私たちはパウロの権威に基づいている正統派だ」「イエス様が誰の上に教会を建てると言ったかおぼえているのか?だから私たちペトロ派が真のリーダーだ」「私たちはキリスト派だ。パウロやペトロとイエス様とどっちが偉い。だから私たちには権威がある」彼らはどちらが優れているか、盛んに自分に与えられている賜物を誇りました。教会は名誉や権威を争うところではありません。私たちは自分の行いや言葉についてそれが愛によって現された言動なのかどうか、時々点検してみる必要があります。あなたの才能、賜物、時間は何のために用いられるのでしょうか?

 

2) 愛に基づいていても理解してもらえない行い  

見返りを求めず与える愛はさりげないものです。神様は知っていても、人々は誰も気付かないこともあります。動機が愛であっても、理解されず非難されることさえあります。マザーテレサの働きは晩年になって世界中の人に知られるようになりましたが、その働きは成功するために、あるいは有名になるために始められたものではありません。そうならなかったとしても彼女自身は全く同じ生涯をたどったでしょう。世界中に知られるようになる前は、周りからの無理解に苦しみながらその働きを進めてきたのです。このように働いている人は世界中にいるのです。そしてそのほとんどは最後まで多くの人々の目に留まることもなく、賞賛されることもありません。しかし少なくとも神様はあなたの心をご存知です。人に認められることを期待せず、神様が喜んで下さることを期待して愛し続けましょう。

 

メッセージのポイント

愛の原点は、イエス様が私たちのために命を捧げたあの十字架です。私たちが真に人間らしく生きるために必要なものは、財産でも才能でもありません。それはイエス様がわたしたちを愛された愛です。わたしたちの内には愛はありません。イエス様に愛を満たしていただかなければ、私たちは自分の欲望に従って生きることになります。しかしそれでは人間らしく生きることはできないのです。イエス様とともに歩んでゆくと、愛するということの実地訓練を受けることができます。そして愛において成長することができます。

 

話し合いのために

1) 愛とは何ですか?
2) どうしたら愛において成長することができますか?