November 2nd, -8th ,2008 Vol.15 No.44
シリーズ:主は私の羊飼い(詩編23編) (2)
あなたの生涯を守り導く神様 (3b-4)
【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(1) 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。(2-3a) 主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。(3b-4) わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。(5) 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。(6)
先週、神様があなたの魂に命を与え、養い育てて下さることを1節から3節前半までを取り上げてお話ししました。今日は、3b–4節から、神様が私たちの人生のあらゆる局面で、歩き続けることのできる力を与えて下さる方であることについてお話ししたいと思います。
現代では人の名前の持つ意味をあまり深く考えることがなく、単に他人と区別するコードのように感じられていますが、聖書の時代、「名前」はその人の本質を表わすものでした。アブラム(「私の父は高められる」の意)がアブラハム(「彼は父の故に高められる」あるいは「多くの国民の父」の意)とされたように、12弟子の一人シモン(「神は聞かれた」の意)をイエス様がペトロ(「岩」の意)と命名したように、その人の生き方が大きく変われば名前が変わることもありました。神様はモーセに御自身の名を「ヤーウェ(私はある)」と明かされました。(出エジプト3:13-15) それは御自身が人の想像によって生み出された神々とは違い、すべてに先立ってあり、永遠にある、唯一の神様であるということを現す名前です。しかし神様は御自身の名前をみだりに口にしてはいけないと戒められたので、旧約の民はアドナイ(主)と言い表すようにしました。私たちは親を名前で呼ばないように、神様に「主よ」とか「神様」と呼びかけます。私たちが「主、イエス様」と呼びかける時、口には出さずに「すべてに先立ってあり、永遠にある、唯一の神様であるイエス様」という思いを込めているのです。聖書の多くの箇所で、ここにあるように「主にふさわしく」ではなく「主の御名にふさわしく」と表現しているのは、私たちにその在り方を深く想起するべきだからです。
創世記の冒頭に、神様がすべてに先立っておられた方として、世界のすべてをお造りになり、その世界を御自身の意思に従って治める者として、私たち人間を最後に造られたことが記されています。人として正しく歩むためには、神様の導きに従わなければならないことが、この聖書の最初の書ですでに明らかにされています。しかし人類は、その歴史の最初からこの真理に背き、失敗を重ねてきました。ダビデ自身も同じです。彼の生涯は、決して一貫して正しい道を歩んだような生涯ではありませんでした。手痛い失敗を繰り返し、どうにも立ち行かなくなり、神様に叫び求めて正しい道に引き戻していただくような生涯だったのです。私たちもまたダビデと同様に、道を誤り神様に助けを叫ばなければならないことが今までもあり、これからもあるのです。それでも主は見捨てずに導いて下さる。それがダビデの心境です。もちろん確信を持って神様に背き歩む人は論外です。どんなに真剣に導きを求めていても、迷うことはあります。そのような人を神様はお見捨てにならないのです。
神様は永遠におられる方にふさわしくどんな時にも、いつまでも共にいて下さる方です。私たちには誰も命の長さをコントロールすることも、知ることも出来ません。地上での歩みの長さも、どのような命の終え方をするかということも、その人の人生の幸せのバロメーターではありません。このことを心しておかなければ、私たちは本当に神様の助けが必要な時に、神様を恨んで背を向けてしまう恐れがあります。私たちが比較的安らかな死でさえ恐れるのは当然のことです。しかし神様は時を超越して永遠におられる方として、私たちに永遠を思う心を与えられるのです。(コヘレト3:11) 神様が私たちに約束しておられるのは永遠の命です。この命を与えられているので、私たちは、肉体を滅ぼしても魂を滅ぼすことができないものを恐れる必要がありません。(ルカ14:2) ダビデは、死と隣り合わせのような危機であっても、「わたしは災いを恐れません」と告白しています。神様が共にいて下さるからです。誰の人生にも思いがけない災いが起こります。そのような災いによって地上での生涯を終えることもあるのです。しかし私たちに与えられているのは「永遠の命」です。10年の生涯も100年の生涯も、永遠に比べればどちらも一瞬のような短い期間です。神様はその期間はもちろん、永遠にあなたと共にいて下さる方なのです。
鞭と訳せる言葉はヘブル語ではいくつかあるのですが、どれも同じようにいくつかの現代語に訳せる言葉です。しかも、ここで同時に出てくる杖もこれらの語が使われているので、文脈で想像して区別するしかありません。しかも実際にどのような形状だったかということはハッキリしてはいないのです。ここで鞭と訳された言葉はおそらくこん棒のようなものだったと考えられます。それは羊を襲うライオンやオオカミを追い払うために用いられたものでした。あなたの羊飼いである神様が、あなたを襲う者からあなたを守って下さるのです。 ところで、あなたを襲う敵とは誰のことでしょうか?あなたの敵は、あなたの周りの誰かでも、違う宗教を信じている人たちでも、あなたの国の敵国の人々でもありません。敵はサタン、悪魔です。サタンは人々の心に影響を及ぼし、人を神様から遠ざけたり、引き離したりする者です。人々を罪の状態におき続けることがサタンの狙いです。この状態においておきさえすれば、人間はサタンが手を出さなくても、勝手に憎み合い、傷つけ合い、殺し合って、神様の意思に反し続けるからです。サタンは決してそれらしい姿で近づいては来ません。誰かの言葉や行い、時には直接自分の心に働きかけて、私たちの魂を神様から引き離そうと試みます。神様はこの試みに対して鞭を振るって遠ざけて下さいますが、その時私たち自身は、神様の背後に身を隠していなければなりません。ふらふらと前に出てゆけば攻撃を受けてしまいます。それはどういうことかと言えば、礼拝すること、祈ること、ミニチャーチのような神様の家族の交わりの内に身を置くことによって、不用意に敵の攻撃にさらされないように気をつけるということです。
杖は険しい道を歩くときの体の支えとして、また羊を数える道具として羊飼いの必需品です。あなたは、神様の群れの羊としてカウントされているのです。良い羊飼いはどんなに多くの羊を飼っていても、一匹一匹の健康状態、発育状態、性質をしっかり把握しています。神様はあなたの性質も、魂の健康状態も良くご存知の上で導いて下さり、必要な時に必要なものを与えて下さる方です。 今日取り上げたテキストは神様の持つ鞭と杖が力づける、と結ばれていますが、いくつかの聖書の翻訳では「慰める」という訳が採用されています。元の言葉はもっと積極的で強い意味を持っているので、新共同訳のように「力づける」という方がふさわしいでしょう。私たちが力強く人生を歩み続けるために、神様は鞭と杖を持った羊飼いのように、完全に守って下さり、誰よりもよく知っていて下さいます。羊が自分で食べ物や飲み水を手に入れられず、攻撃する力も、素早く逃げる足も持っていないように、私たちに出来ないことは沢山あります。しかし、よそ見をしないで懸命に主を見つめて、ついてゆくことはできるのです。
名前とは単に他と区別する記号ではなくその在り方を示すものです。その名に示される、聖書の神様の在り方は「人生の導き手、同伴者」です。イエス様は命をかけて私たちに寄り添って下さいました。神様は、私たちに対する深い愛のゆえに、イエスキリストを通して決して変わることのない「人生の導き手、同伴者」となって下さったのです。私たちがこの不確実に見える人生を恐れることなく歩めるのは、神様が、永遠に変わることなく私たちを守り導いていて下さるからです。
1) 主の御名とは何ですか?
2) 神様の鞭と杖とは、どのようなことのたとえですか?