November 9th, - 15th ,2008 Vol.15 No.45

シリーズ:主は私の羊飼い(詩編23編) (3)
主の家に住む (5-6)

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(1) 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。(2-3a) 主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。(3b-4)  わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。(5)  命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。(6)

詩編23編は今日の部分から、ここまで良い羊飼いに例えていた神様を、旅人をもてなす主人に例えて表現しています。旧約聖書の民の背景は遊牧民でした。聖書は旅人をもてなすことを神様の命令として記しています。この時代のこの地域での旅は、命に関わる危険を伴ったものでした。盗賊に負われて見ず知らずの人の天幕に逃げ込むということもあったのです。その時主人には旅人を保護する義務がありました。ダビデは、神様がただかくまってくれるだけでなく、最大級のもてなしをして下さる方だと感じていたのです。

A. 神様が整えられた食卓につこう

1) どんな状況にあっても、必要な糧は備えられている(5a)

わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。  

生物が生きてゆくためには、水と空気と栄養が欠かせません。私達の魂も同じです。イエス様はあなたの魂にとって空気のように不可欠です。イエス様なし魂は生きようがありません。神様の霊、聖霊は聖書の中でもよく水にたとえられますが、まさに聖霊は魂の水です。空気があれば数日は生きのびることができるでしょう。しかしそれ以上は長く耐えることはできません。肉体が水分を必要とするように、私たちの魂は聖霊に満たされていなければならないのです。しかしそれだけではまだ不十分です。体を健康に保ち成長するためにはさらに、栄養を取らなければなりません。あなたの魂の栄養は神様の言葉です。この三つのことが、あなたの魂の健康を支えているのです。ところが恐ろしい時、悩んでいる、困っている時、実際の食事がのどを通らないことがあるのと同様、私たちの魂はまさにそれが必要な危機に、神様に求める気持ち失せてしまうことがあるのです。そのような時には、できるだけ症状が軽いうちに、少し自分を励まして神様の言葉を食べようとすることが大切です。神様が与えて下さる霊的な食事はいつもフルコースで出てくるわけではありません。あなたの霊的な必要に最も相応しいメニューを用意して下さるのです。

 

2) 最も大切な客として迎えられる(5b)

わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

香油は高価なもので、繁栄の象徴でした。主人が客の頭に香油を注ぐことは、主人が豊かであるということと、客がその主人にとってとても大切な人だということを意味しています。神様はあなたを杯が溢れるほどに惜しみなく恵みで満たすために招いておられます。  教会は、神様の家のダイニングルームです。神様はオーナーです。つまりキッチンワークをしたり、サービスしたりするのはそこに集うクリスチャンの仕事です。教会のメンバーは人々に来て食べていただくだけではなく、どこにでも出向いて霊的な食事を提供できるケータリングサービスも行っているのです。教会のメンバーになるということは、ピンチに直面している人のところに出向いて霊的な食事を提供する、神様のレストランのスタッフになるということでもあるのです。このことを理解しているクリスチャンが世界のあらゆるところで、神様の言葉を提供するシェフとして、ウエイトレス、ウエイターとしてあらゆる場所に出かけて働いています。

 

B. 主の家に帰り、生涯そこに住もう

1) 神様の恵みが追いかけてくる?(6a)

命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

新共同訳聖書の「命のある限り」という表現は、何か期間限定のように聞こえる人もいるかも知れませんが、元の言葉はNIVのように生涯、毎日、毎日いつでも、という意味の言葉が使われています。「いつでも恵みと慈しみが追いかけてくる」とはなんともすごい表現では無いでしょうか?青い鳥という話をご存知ですか?チルチルとミチルという兄妹が幸せをもたらす青い鳥を過去や未来に国に探しに行く話です。青い鳥は結局どこにいたと思いますか?さんざんあちこちを探しまわり、見つからずに家に帰ってきたら自分たちの家の鳥かごの鳥がそうだったというお話です。多くの人々は幸福を追い求めて、なかなかそれが得られないので失望しています。ところがダビデに言わせれば、幸福はあなたを追いかけてくるというのです。ただしダビデの言う幸福は普段、私達があまり使わない名前の幸福です。「恵み」と「慈しみ」それは神様が下さる幸福です。あなたにたずねたいことは、あなたは自分なりの幸福を求めて追いかけるのに夢中になっていて、結局本当の幸せから逃げ回っているのではないですか?ということです。本当の幸せとは、神様と共に歩む時に豊かに注がれる「恵み」と「慈しみ」です。二千数百年前の詩人ダビデはこの本当の幸せを知っていました。それはあなたが追いかければ遠のいて、なかなか近づけない蜃気楼のオアシスのようなものではなく、生涯あなたを追いかけてくる幸せです。

 

2) 生涯の我が家 (6b, ルカ15:11-31)  

この幸せを手に入れる方法もダビデは続けて教えてくれています。

主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう

イエス様はある時こんな話をなさいました。「父や兄とともに暮らしていた青年が、ある日父に自分がいただける分の財産を今分けて下さい、と申し出ました。そこで父は二人に財産を分けてやりましたが、彼はそれをお金に換えて遠くの国に旅立ち、そのお金をあっという間に使い果たした上に、その地方にひどい飢饉が襲い、飢えて死にそうになりました。その時、彼は父のところへ帰ろうと決心しました。自分にはもはや息子と言われる資格などないけれど、せめて雇い人の一人としてもらえないか願ってみようと思ったのです。父は彼を憐れに思って走りよって喜び、彼を息子として再び迎え入れた」 (ルカ15:11-31)という話です。 あなたに必要なことは、飛び出してきた自分の家に帰るということです。それは主の家です。あなたを創って下さった主の家に帰るということです。それは言い換えれば生涯神様とともに歩むということです。あなたは飛び出してきたということを全く意識していないと思います。神様を知らなかったのですから無理もないのです。たとえクリスチャンの家庭に生まれたとしても同じことです。人が、創って下さった神様に背を向けたのは創世記に記されている歴史の始めの出来事です。個人的に経験したことではありません。しかし私たちは、誰も例外なく、アダムとエヴァの持っていた神様に背を向けるという罪の性質を持って生まれてきました。この罪こそが私たちの悩みや問題の原因です。この世界で現実に起こされる犯罪は「罪」の典型的な結果です。人はすべてが「犯罪者」ではありませんが「罪人」ではあるのです。神様は私たちに、この罪から解放される手続きを提供して下さいました。それがイエスキリストの十字架です。御自身が人として、この罪に対する罰、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。だから私たちは神の家に帰ることができるようにされたのです。あなたがこの幸せを手に入れるためにするべきことは単純です。それは、あの十字架の苦しみが自分の罪の赦しのためであってことを信じ、イエスキリストを神と信じ、生涯従って行くと決意することです。

 

メッセージのポイント

仕事や学びの場は時に戦場のように過酷です。しかし、帰ればリラックスできる場所があるなら、そこで疲れはいやされ、力を得て再び戦場に出てゆく勇気が与えられられます。それは暖炉のある居間や、リクライニングできるカウチのことではありません。本当に必要なのは、疲れ切ったあなたのことを優しく受け入れてくれる人がいる場所です。私たちは家庭をそのような場所にしたいと願っていますが、なかなか難しいことです。けれども、たとえあなたを待っているのが誰もいない空っぽの部屋だったとしても、あなたが神様をあなたの心に迎え入れるなら、あなたの魂は「完全な我が家」を手に入れたことになるのです。

 

話し合いのために

1) 主が注いで下さる香油や溢れる杯とは何を意味していますか?
2) 主の家はどこにありますか?