November 30th,- December 6th, 2008 Vol.15 No.48 Advent I

日のあたる側を歩いてゆこう (Isaiah 8:21-9:6)

A. いつの時代にも陰の部分と光の部分がある

1) 罪の闇から抜け出せない私たち(8:21-23a)

この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。(8:21-23a)

この部分だけを抜き出して読むなら、これは今の時代について書かれていると感じる人も多いのではないでしょうか?しかしこれは約2700年前に書かれたものです。実は、この書が読み続けられてきたいつの時代にも、世界の多くの場所でこのような状況がありました。もちろん、もっと狭い範囲で考えれば、良い時、悪い時、良い所、悪い所があったとはいえますが、最も悲観的な言い方をするならば、「世界は一貫して暗闇のような状態である」ともいえるでしょう。そこまで悲観的でなくても、世界がほぼ良かったという時はなかったのです。しかし創世記の創造の物語の言葉を思い出して下さい。すべてのものを創られた神様の目に「それは極めて良かった」のです。(創世記1:31)世界という神様の庭園を正しく美しく管理する者として神様はすべてのものの最後に私たち人間をお創りになられました。しかし、この人間に問題がありました。神様が与えて下さった自由な意思を、神様の意思に喜んで従って行こうという方向には用いず、自分の欲望の赴くままに働かせることを選んだのです。アダムとエヴァそしてアベルとカインの話はこのことを象徴しています。そして私たちは皆、この延長線上にいる存在です。聖書はこの状態を「罪」と呼んでいます。この「罪」が、ここに記されている闇の状態を世界中にはびこらせて来たのです。私たちは決して、今特に悪い時代にいるわけではありません。あなたが幸いでない、平安でないとしたら、それは時代のせいでも、住んでいる地域のせいでもなく、決別しなければならない「罪」のせいなのです。そのようにいわれると、周りのせいではなく自分のせい?と反発をおぼえる人もいるでしょう。あなたのせいではなく、罪のせいです。罪はあなたの内にだけあるのではなく、すべての人の内にあるのです。それが影響を及ぼし合って、いわば霊的環境は形づくられています。地球上のすべての人が自分の罪を悟り、悔い改めてイエス様を主として自分の心の受け入れない限り、この世界から闇は消え去りません。このことが絶望的に聞こえますか?それは誤解です。次の部分から、その誤解を解いてゆきたいと思います。

 

2) 希望の光はいつも輝いている(8:23b-9:4)

先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。(8:23b-9:4)

ガリラヤはイエス様の故郷です。今、イエス様の故にガリラヤの名は世界中のクリスチャンによって知られています。ミディアンの日とはイスラエルが人の力ではなく徹底的に神様により頼んでミディアン人勝利した時のことです。(士師記7章) そこでこの預言は、すべての人が本気で主に従うなら、殺し合い、傷つけ合う必要はなくなります、ということを意味しているのです。世界で最初のクリスマスに、本当の光は世界に輝いたのです。このことは、あなたがどんな環境にいようと、幸いや平安を得ることができるということを意味しているのです。なぜなら絶望的な闇の中に、光が輝いたからです。旧約の時代でさえ、イザヤのようにやがて来られる救い主を待ち望みつつ、神様とともに誠実に歩んだ人々もいたのです。彼らの心の中には希望の光がおかれていたのです。しかし、私たちは今、もう待ち続ける必要はありません。既に光は来られたからです。旧約の時代人々は待っていましたが、今はイエス様があなたを待っておられます。イエス様が来られたので、あなたはいつでもその気になりさえすれば、人生という道の日のあたる側を歩くことができるのです。あなたは暗い人生の道を歩いているのではなく、陰の方を歩いているに過ぎないということです。日のあたる側に渡って光の中を、私とともに歩きませんか?とイエス様はあなたを招いておられるのです。

 

B. あなたを日のあたる側に招く方 (9:5-6)

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(9:5-6)

イザヤの時代と同じように、今の時代も真のリーダーシップが求められています。2000年前のクリスマスは、この私たちの願いに対する神様の応答でした。この預言を知っていたユダヤ人の中で、イエス様こそ待ち望まれていたメシアだと信じた人々が、最初のクリスチャンとなったのです。クリスチャンとはイエスキリストを救い主、神様と信じる者のことです。イザヤ書はイエス様が歴史に登場する前に預言された言葉ですから、そこで預言されている主イエスキリストがどのようなお方なのかをイエス様の実際になさったこと、語られた言葉を記録しいている福音書で確認してみたいと思います。

 

1) 驚くべき指導者:イエスキリスト (ヨハネによる福音書13:3-8)

イエス様はそれ以前のリーダーとは全く異なるリーダーの在り方を示されました。その象徴的な出来事がヨハネによる福音書13章(3-8節)に記されています。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

足を洗うのは僕(しもべ)の仕事です。リーダーのすることのようには思えません。前に詩編23編のお話をした時に、良い羊飼いは羊のために命を捨てる、とイエス様がいわれたことをお話ししましたが、実際には羊のために命を捨てる羊飼いはいないでしょう。イエス様は御自身の在り方、そして弟子たちが目指すべき、霊的な指導者としての在り方として、このようになさり、このように語られたました。あなたに、「私に従って来なさい」と呼びかけているのはこのような方です。従ってゆくということはただついて行くことではありません。同じようにする、ということが従うということです。目に見える教会のリーダーも同じことが求められていることはいうまでもありません。あなた自身もまた、あなたの置かれた場所でそのようなリーダーになることが求められています。教会のリーダーが、神様に仕え人々に仕え、世界に仕えているかどうかが、目に見える地上の教会の健康のバロメーターです。

 

2) 力ある神:イエスキリスト (ルカによる福音書4:31-37)

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。(ルカによる福音書4:31-37)

イエスキリストが単なる歴史上の優れた人物ではないことを、この個所は教えてくれます。イエス様は単に道徳的指標を与え、後は自分で頑張りなさいと突き放すような方ではないのです。誰でも何が正しいかはある程度知っているのです。問題は使徒パウロがローマの信徒への手紙で言っているように、知っていても行う力がないということです。どんなに正しく立派なことを教えられてもそれができない私たちです。しかしイエス様は違います。実際に行う力を行使されました。そしてその権威と力を弟子たちにお与えになったのです。イエス様とともに歩むということは先々週お話ししたように、イエス様の弟子となることです。あなたが日のあたる側を歩むとき、あなたも神様の権威と力を帯びて歩むのです。

 

3) 永遠の父:イエスキリスト (ヨハネによる福音書5:35-40)

ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。 父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。(ヨハネによる福音書5:35-40)

この世界において、人は永遠の存在ではありません。しかし、永遠の王と称せられる方はあなたを永遠の住まいへと向かう道に招かれるのです。イエス様に従う人も、イエス様を信じない人も同じ人生という名の通りを歩いています。しかし暗い方の側には、凍結していて滑って転んだり、マンホールのふたが開いていても気付かずに落っこちてしまったりするような危険があなたを待ち受けています。私たちが使っている新共同訳の売り上げは、今年の7月に1987年の刊行以来、21年で1000万冊に到達しました。そのほかの訳を含めるなら国民の10人に1人は聖書を持っていることになります。ところがクリスチャンはそのうちの1人に過ぎません。このことをあなたはどう感じますか?聖書を読んでいるだけでは、日のあたる側を歩いてはいないのです。そして日のあたらない側では、いつの間にか歩き続けられない障害、死が遅かれ早かれやってきます。日のあたる側は違うのです。もちろん肉体の死は誰にでもやってきます。しかし日のあたる側は、それ自体が歩きやすく安全で楽しい道であるだけではなく、肉体の死の先にも希望があるのです。

 

4) 平和の君:イエスキリスト (マタイによる福音書21:1-5、ヨハネによる福音書14:27)

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 (マタイによる福音書21:1-5)

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネによる福音書14:27)

君とは王子のことです。平和の君とはどういうことなのでしょうか?当時の人々が君という言葉に抱くイメージは、王に代って軍勢の先頭に立ってもっとも優秀な軍馬に乗って指揮を執る司令官のような姿でした。実際、人々はイエス様に対してそのような軍事的なメシアとして期待を寄せていました。どんなに優れた政治家でもあなたに本当の平和を与えることはできません。軍事的な勝利を収めたり、経済的な発展をもたらしたりする事はできるかもしれません。しかしあなたの人生に勝利を与えることができるのは、平和の君、イエスキリストの他にはありません。  私たちの不安は社会が与えているのではないのです。ですから、この社会が与えることのできる平安では、私たちの魂の根源的な不安を消し去ることはできません。私たちの不安の本当の原因はつながるべき所につながっていないところにあるのです。だから自分の人生の意味を分からないままに、どこから来てどこに行くのかの確信を持てずに、それでも日々の歩みを続けています。  イエスキリストは、御自身が政治的、軍事的リーダーとは全く異なる意味で、しかしそれこそが真のリーダーであることをお示しになるために、預言されていた通り軍馬ではなくろばの子に乗って都エルサレムに凱旋なさったのです。イエス様の与える平和は、人々が立ち返るべき所に立ち返ることによって得られる真の平和です。あなたがそれを得る権利を得るために、御自身は十字架の死の苦しみを受けるために凱旋されました。王宮に入り人々を支配するために凱旋する方ではありませんでした。  結局、ダビデに優る王は彼の王朝に現われませんでしたが、イザヤの預言は700年後に人々の想像をはるかに超えた形で成就しました。あなたもイエスキリストの招きに応えて日のあたる側を歩き始めませんか? この招きこそ、神様からあなたへの最高のクリスマスプレゼントです。

メッセージのポイント
不幸を時代のせいにしてはいけません。神様はこの世界を創造して以来、私たちに恵みを受け取るチャンスを常に与え続けていて下さいました。そしてどの時代にもそれを受け取って祝福された生涯を送った人々がいました。どんなにひどい世の中に見えても、日のあたる側を歩くことができるのです。神様は約2000年前に一人の人としてこの世界に来られ、暗がりを歩きがちだった人々を日のあたる側を歩くことができるようにして下さいました。醜い罪の性質からはなれて光の中を歩くために、あなたには驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君であるイエスキリストが必要です。

話し合いのために
1) なぜいつの世にも陰の部分があるのですか
2) イエス様の4つの称号の中で、あなたが一番印象に残ったものについてシェアして下さい