December 7th, -13th, 2008 Vol.15 No.49 Advent II

“あなたの”クリスマスを待ち望もう (イザヤ書 32:15-33:6)

A. 神様の約束 (32:15-20)

ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。 そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。 しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。 すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。(32:15-20)

皆さんは最近、肉眼で天の川を見たことがありますか?私は2週間前、軽井沢を訪れた時にとても久しぶりに見ることができました。東京の夜は明るすぎて、天の川どころか、よほど明るい星でなければ見ることができません。闇が深ければ深いほど光は輝きます。この世の闇は確かに深いのにイエス様が見えにくいのは、様々な偽りの光が私たちの良心を麻痺させているからです。イエス様がこの世界に人として来て下さった理由を一言でいうなら、私たちが神様と和解できるようにして下さるためです。しかしその中に含まれる内容は大変豊かです。ここで取り上げられていることは「聖霊が注がれて、世界は神様がお創りになった時の豊かさに回復する」ということです。聖霊は私たちの上に豊かに注がれています。それは復活された後にイエス様が天にお帰りになる時実現したことが使徒言行録に記録されています。聖霊が注がれるとき、そこには正義が現わされ、その正義によって平和や信頼が生み出されます。私たちに約束されていることは、水不足の心配もなく十分に種まきできる土地、牛やろばを自由に放牧できる広大な土地に例えられるような繁栄です。それらは私たちにとって、神様が与えて下さる豊かさを満喫できるということです。しかし世界には、そのような明るい部分、先週のメッセージでいうなら日のあたる側だけではなく、雹の降る森や襲われる町と表現されるような災いもおこる、暗い側が存在しています。

 

B. 私たちの現実 (33:1-4)

イエス様に出会う前の私たちの現実は、危険な暗い闇の中の歩みでした。33章1-4節は、いつの時代も変わらない罪の現実を良く表わしています。 災いだ、略奪されもしないのに、略奪し/欺かれもしないのに、欺く者は。お前は略奪し尽くしたときに、略奪され/欺き終えたときに、欺かれる。 主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください。 どよめきの声によって、もろもろの民は逃げ/あなたが立ち上がられると、国々は散る。 いなごが奪い去るように、戦利品を奪い去り/ばったが跳ねるように/人々はそれに飛びつく。(33:1-4)

殺し合い、奪い合い、憎み合い、騙し合い、傷つけ合う現実が私たちを取り巻いています。このような現実に対して私たちはほとんど無力のようにも見えます。神様に向かって憐れんで下さいと叫ぶしかない、祈らずにはいられない存在です。けれども、そのような現実に気付いているならまだ希望があります。その人は闇におおわれていることを知っています。だからその人は神様に向かって叫ぶのです。そして神様はその叫びの声を聞いて下さる方です。 私たちは私たちの愛する人々が、この闇の現実と真の光であるイエスキリストの存在に気付いてほしいと心から願います。教会はこの良い知らせを伝えるために存在しています。4節には神様が立ち上がられる日には、神様に敵対するものが散らされ、彼らが得た不当な利益を、奪われた者が取り返す時が来ると預言されています。神様が創られ大変満足された世界を私たちは期待していいのです。

 

C. このギャップを埋めるために来られたイエス・キリスト (33:5-6,2)

年末になると高額賞金のあたる宝くじが発売されて毎年話題になりますが、一等が当たったのに賞金を受け取らない人が毎年何十人も出るのだそうです。もったいない話ですね。でもこの世界にはもっともったいない話があるのです。 イエス様は沢山の「○○し合う」を「愛し合う」に変えるために、神様の約束(A) と人間の現実(B) の間のギャップを埋め、あなたが約束の恵みをためにこの世界に来て下さいました。イエスキリストの十字架によってあなたは、いくらお金を出しても買えないほどの恵みを受け取る権利を得たのです。もう2000年前の出来事です。まだ受け取っていなくても、この権利の時効はまだ来ていません。宝くじの賞金を受け取るために銀行に行かなければならないように、この約束を受け取るためにあなたがするべきことは、まずは受け取ろうとイエスキリストの前に出てゆくことです。イエス様を主と信じて歩み出すのです。それからも恵みをフルにいただくためにはふたつするべきことがあります。第一は期待しながら待ち望むということです。そして第二に、祈り求めることです。

 

1) 期待しよう (33:5-6)

主は、はるかに高い天に住まわれ/シオンに正義と恵みの業を満たされる。 主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。(33:5-6)

神様の恵みは、あなたの生涯をとおして豊かに与えられますが、今も闇の力が働くこの世界では、私たちの周りに様々な問題も現実として存在し続けています。だから神様を信じることは意味のないことなのでしょうか?他の努力をするべきなのでしょうか?しかし、神様の恵みなど地上には来ていないかのように見えるところに置かれている人々が、それでも神を信じ、期待し、待ち望んでいることを無意味なことだと笑うことができるのでしょうか?主と呼ばれる神がおられ、彼を信じ、恐れ、期待を持って待つ者に勝利が与えられることを私は信じます。そのような信仰が無意味であるという意見を多くの人が持っていることも知っています。神様などいない、イエスは神ではない、と主張する書物も沢山読みました。聖書は世の光イエスキリストの誕生を告げ知らせているのです。心からの信頼を寄せることのできる人が、あなたにいるでしょうか?イエスキリストはそのようなお方であると聖書は、その全体を通して教えているのです。

 

2) 祈り求めよう (33:2)

主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください。(33:2)

ある人は、「私には祈ることしかできません。」と謙遜しますが、「祈ることしか」と言ってはいけません。祈りほど大きな力はないのです。33章2節にある祈りに応えて、神様は立ち上がり、イエス様を世界に送られたのです。それは正しい人のための祈りではなく、罪人を救うための祈りです。私を救って下さい、あの人を救って下さいという私たちの祈りです。祈りが行動を生み、奇跡を生むのです。 今私たちがなすべきこと、それはイエスキリストを信頼し、神の国の完成を待ち望み、祈り続けることです。そして、その第一歩は、2000年前に差し出されたイエスキリストという神様からのプレゼントを今、受け取りことから始まります。

 

メッセージのポイント
神様は、後にも先にも起こらない、たった一度の特別な出来事として御自身を表わされることをイザヤのような預言者たちを通して予告しておられました。今でも略奪が続き、私たちは「主よ、憐れんで下さい」と叫び求めなければならない時が続いています。けれども、よく見ると公正と平和は、始まっていて、広がり続けています。問題は、今の社会がどうかということではありません。あなたの心のクリスマスは来ているかということです。あなたの心の救い主イエスキリストは既に来ておられますか?そうであればあなたの上にも霊が注がれ、あなたの内側に実現した、平和、正義、信頼はあなたを通して社会に広がります。期待して祈り求めましょう。

話し合いのために
1) 2000年前の出来事はいつ“あなたの”クリスマスとなりましたか?
2) あなたは今、何を期待し祈り求めますか?