December 28th, 2008 -January 3rd, 2009 Vol.15 No.52

2007<2008<2009 コリントの信徒への手紙1 9:19-23

「今年のテキスト」として週報の表紙に掲げられているコリントの信徒への手紙1 9:19-23をもう一度共に読んで、この一年の歩みを振り返りましょう。

A 自由な奴隷として歩みましたか?(9:19)

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。(19)

1) クリスチャンはどのような意味で誰に対しても自由なのですか?

あなたは自由ですか?という質問に対する答えは、自由とは何かというその人の考えによって、同じような状況におかれている人々でも違うものです。自由とは何でしょう?先週のクリスマス礼拝では「平和とは争いのない状態なのではなく、神とともにいる状態である」と学びましたが、「自由」も平和と同じように考えることができます。真の「自由」は、ただ何かに束縛されていないことではなく、神様との健康な関係が築かれていることなのです。神様に支配されていることを認めているので、他のすべてのことから自由でいられるのです。アダムとイヴの失敗は、神様から逃れることが「自由」だと誤解したことでした。そして、この“霊的”遺伝子をすべての人は持っています。その結果は深刻です。心を満たすべき良いものを拒むなら、別のもので満たすしかありません。しかし神様の恵み、平和、豊かさに勝るものはないのです。どんなに頑張って、欲張ってたくさんの物を手に入れても、私たちの心は満足できないのです。だから人は牢につながれていなくても、自分は自由ではないと思うのです。クリスチャンとは神様と仲直りをして真の自由を獲得した人々ということができます。あなたはまだ何かを、誰かを恐れてはいませんか?恐れの記憶は簡単に消えるものではありませんが、私は何からも誰からも自由だという事実は誰にも打ち消すことはできません。あなたは自由です。神様に従う者として、神様の意思に反するような妥協を求められるなら、「私は自由です!あなたの支配の下にはいません」と宣言しましょう。

2) すべての人に奴隷になるとはどのようなことですか?

クリスチャンは神様に完全な自由を与えられているからこそ、仕える者として生きることができるのです。何も恐れる必要がないので、自分を優れたもの、強い者と見せようとする必要がありません。神様の計画に必要な者とされているので、「人に有用な者だと思われたい」と願う必要がありません。神様の大きな愛に包まれているので、満たされたいという願いではなく、満たしたいという願いを持つことができるのです。ただ誤解してはいけないことがあります。奴隷となるというたとえは完全ではありません。ここでは、奴隷となるとはその人の言いなりになるということを意味しているわけではありません。誰かを本当に愛している人は、決してその人の言いなりにはなりません。仕えるとは、愛するということです。愛しているからこそ、厳しい態度が必要な時もあるのです。

誰かを得るために誰かになりましたか? (9:20-22)

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。(20) また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。(21) 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。(22)

1)あなたはどのような人にイエス様を紹介しましたか?

この一年間の新しい出会いを振り返ってみましょう。イエス様を誰かに紹介する機会があったでしょうか?自分自身がイエス様に初めてで会ったという人も多くいました。誰かがあなたにイエス様を紹介してくれたから、イエス様に会えたのですね。来年はあなたが誰かにイエス様を紹介する番です。

2)あなたがその人のようになるとは、実際に何をすることなのですか?

誰かにイエス様を紹介したいなら、その人のようになりなさいとパウロは勧めています。それは自分の方からその人の方に進み出て、自分のあり方に固執せず、その人に対する偏見を捨て、できるだけその人の考え方、感じ方を理解して友となることから始まります。人間はなかなか自分の殻を破ることができませんが、イエス様は大きな隔たりを軽々と飛び越えて罪人の友となって下さいました。当時のイスラエルの社会の中で軽蔑されていた人々と食事を共にされました。パウロはイエス様を知る前は筋金入りの律法主義者でしたが、イエス様に出会って隔たりを乗り越えられる人となれました。わたしたちもイエス様に助けていただいて誰かのために誰かのようになれる人として成長してゆきましょう。


イエス様とともにどんなことでもしましたか? (9:23)

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(23)

1)福音とは何ですか?

福音とは「良い知らせ」という意味の言葉です。英語ならグッドニューズでも良いのですがやはり特別に「ゴスペル」と言う言葉が使われます。ほぼ日本語にもなっているゴスペルミュージックのゴスペルです。あなたは誰かがこの良い知らせを伝えてくれたのでイエス様を知ることができました。これが誰にとっても良い知らせなのだとすれば、あなたも誰かに伝えたいと思うでしょう。伝えるためにはその内容を自分でもよく知っていなければなりません。このニュースの第一部は先週お話ししたばかりですからおぼえていらっしゃると思います。救い主がお生まれになったというクリスマスのお話です。けれどもこのお話しにはもっと重要な第二部があるのです。イエス様はすべての人の罪の身代わりとなって十字架で命を捨て、三日目に死に打ち勝ってよみがえった、という出来事です。それは神様が、私たちの悪しき霊的な遺伝子の問題を根本的に解決する方法でした。本当に奴隷の身分でなくても、様々な欲望の奴隷、自分自身の奴隷、罪の奴隷である私たちは解放されなければ自由にはなれないのです。

2)福音のためにあなたは何をしますか?

自由になれた人は、まだその人と同じ束縛に苦しんでいる人を見たらそれを伝えたいと思うようになります。一度でも人に伝えて、その人が喜んでいるのを見るなら、「どんなことでもしてもっと多くの人々にこの喜びを伝えたい、このことこそ自分のライフワークだ」と確信するのです。だから、その方法はそれぞれ違っていても、クリスチャンの人生の目的は福音(良い知らせ)を人々に伝えることです。ニュースは伝えなければニュースにはなりません。ニュースを伝えるために大切なことは、1) あなた自身、そのニュースが大好きで、よく知っていること 2) あなたに合った伝え方をすること 3) 伝えたい相手に合った伝え方をすること 4) 決してあきらめないことです。 


3)福音に共にあずかるとはどのようなことなのでしょうか?

ニュースは人から人へとリレーされて伝えられて行きます。どこにも伝わらなくなればそれはもはやニュースではありません。あなたのところまで届いて、もう誰にも届けたくないと思えばそこでそのニュースは死を迎えることになります。間違った知らせならストップしなければいけませんが、福音は違います。世界の最後の一人まで伝えなければならない「重要な知らせ」です。聞いただけではなく、このお知らせリレーに加わることが、パウロの言っているように福音にあずかることになるのです。

メッセージのポイント

2009年を迎えようとしている2008年のあなたは、2007年より霊的に成長していることを実感していますか?私たち一人一人の成長の集合が「ユアチャーチの成長」です。皆の成長が目に見える教会の成長として身を結んでいることを喜び感謝しましょう。私たちは、イエス様のように真に自由な者として、人々に仕えるように世に派遣され、福音にあずかる者に、少しずつ変えられて(成長して)ゆきます。来年のあなたが去年よりも、今年よりも霊的に成長した者になろうと決心して新しい年を迎えましょう。

話し合いのヒント

1)2008年のあなたは2007年のあなたとどう違いますか?
2)どのような2009年のあなたを目指しますか?