January 11th,- 17th, 2009 Vol.16 No.2

灯台になろう 2009年ユアチャーチ・カヴェナント (メンバーの誓約)

 今日は「教会のメンバーになる」ということについてお話しします。ここには、クリスチャンではない方、クリスチャンでこの教会のメンバーではない方、ユアチャーチのメンバーがいるわけですが、このことは誰にとっても重大な問題です。あなたがどれほど充実した人生を送れるか、信仰的な表現をすれば、どれほど神様の意思に適った生き方ができるかということです。  ユアチャーチでは、今日お話しする三つの約束を守ると誓った人がメンバーです。そしてこの誓いは毎年新たにされるものなので、メンバー以外の方はもちろん、今までメンバーだった方にも新しい決心を求めることでもあります。ですから去年までメンバーだった方にも、分かり切っている事としてではなく、新たな事として真剣に効いていただきたいのです。  この地上でのクリスチャンの働きをイエス様は「地の塩・世の光」と表現なさいました。後で紹介するマタイによる福音書5章に記されている言葉です。灯台の光が、暗い海を照らして船が安全に航行して目的の港に向かえるように、人々が喜びと平安に満ちた生涯を送り神の国に到着することができるように、救い主を指し示すことが私たちの役割です。

A. 私は礼拝を生活の中で最優先することと十分の一の献げ物によって神様を愛し神様に仕えます

 

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)

1) 礼拝が最優先

 聖書によれば、神様を信じるとはその存在を信じるということではなく、イエス様を自分の主と確信し、信頼し服従することです。その神様が礼拝を第一の事として求めておられるのです。礼拝は信仰の土台です。礼拝を生活の第一優先におくことが私たちの責任です。これは荒波に洗われる灯台の土台の部分に当たります。ここがしっかりとしていなければ高い塔を支えることはできません。どんなに良い志を持っていても高い塔がなければ人々の目には触れません。神様にしっかりとつながらず、人間の力だけで高い塔を立てることができないことは、バベルの塔の失敗(創世記11章)の時から分かっていたことです。すぐれた灯台になるのに最も大切なことはどれほど優れた投光器(あなた自身の能力)を持っているかでも、塔(信頼できる人間関係)がどれほど高いかでもありません。どこに土台を据えるかということです。週の初めの礼拝はどんな事柄よりも優先すべきことですが、礼拝とは日曜の朝に限った事柄ではありません。礼拝とは神様の前に進み出ることです。神様の前に進み出て、多くのもの(賛美、感謝、願い、ささげもの)をささげ、多くのもの(言葉、慰め、平安、勇気、導き)をいただくことです。日曜日の礼拝は多くの人々とともに神様の祝宴に出席することです。他では得難い心の糧を得ることができます。しかし週日にも、一人で、あるいは家族、友人と主の前に出られます。ほんの少しの時間でも主の前に進み出ることを約束していただきたいのです。

2) 献げもの

 実際の日曜礼拝の中で献金を行わないのは、クリスチャンではない方や、その日に持ち合わせのない方への配慮ですが、わたしたちは献げることは礼拝の一部だと信じています。一人一人が収入の1/10をささげる事によってキリストの体の機能を維持します。
「これは旧約の規定であって現代のクリスチャンには求められてはいない、と考える人も多いのです。しかし私たちはこのことを規定ではなく、ささげものに関する旧新約聖書全体がおしえる単純な原則だと信じています。

 

B. 私はあらゆる機会 (日常生活、ミニチャーチの交わり、ミニストリーグループの働きなど)に、惜しみなく分かち与えることによって互いに愛し仕えあいます

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)

1) 互いに愛し合いましょう。仕え合いましょう

あなたに礼拝というしっかりした土台があれば、世の光となれるかといえばまだ足りないものがあります。光を確実に届けるためには高い塔が必要なのです。それは同じ体に連なる者が互いに愛し合い仕え合うことです。イエス様に対する信頼を土台とした人間関係です。私たちは誰も単独で世の光とはなれない弱さや欠けを持っているのです。その場に遣わされているクリスチャンはあなただけであっても、あなたは体の一部としてそこにいるのです。教会の中にはあなたの力を、祈りを、慰めを、知恵を必要としている人がいるのです。あなたを必要としているクリスチャンはこの教会の外にも存在します。大きな一つの教会の中でもこの協力は必要です。しかし目の前にいる人々のニーズを満たそうと思わない人が、どうしてさらに遠くにいる人々と協力できるのでしょうか?このことは、目に見える一番近くにいる人々との間で始めなければならないことです。

2) それは自分の成長のためでもある

 愛し合い仕え合うことは、あなたの成長のためでもあるのです。あなたは同じ主を信じる人々としっかりと結び合わされることによって高い灯台に必要な強度を持って世の光となれるからです。愛する、犠牲を払うということを始めるにあたって、教会は温室ともいえるでしょう。まだ弱い苗が成長するために、突然寒い風が吹き付ける外気に当てたら倒れてしまうかもしれません。しかし教会の中には、たとえあなたが失敗しても至らなくても、忍耐してあなたの愛を育てたい、あなたの愛や犠牲に応えたいと思っている人がたくさんいるのです。ここであなたの愛は成長するのです。

 

C. 私は神様の世界に対する働きを担い、様々な働きを支援することによって 世界を愛し世界に仕えます

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)

もうここまで来たら、多くの言葉は必要ありません。初めにお話ししたように、私たちがキリストの体(教会)の一部として一人一人に期待されていることは地の塩、世の光となることです。教会という心地よい温室の中にいることがゴールではありません。そこで留まるなら、それはしっかりとした岩の上に立ち、素晴らしい塔を持っているのに光を放つことをしない灯台のようなものです

1)教会の様々な働きに自覚と責任を持って加わる

私たち一人一人はそれぞれが単独で地の塩、世の光なのではありません。教会の一員としてそうなのです。教会は私たち一人一人の集合体です。ユアチャーチが教会であるためには、暗闇に向かって光を投げ続けなければなりません。私たちが教会で担っている働きの一つ一つが組み合わされて塩や光となるのです。建物の維持管理、礼拝にかかわる様々な働き、子供の教会のスタッフ、いろいろなミーティングをリードする者などに、一人でも多くの人が責任を持って担ってゆくなら、この灯台の光はもっと強力に闇を照らすことができるということです。

2)キリストの香りとなって、その人が神様との関係を回復する手助けをする

日常生活の中では、自分が与えられた恵みや喜びを人々に伝え、愛することによりキリストの香りをはなち、イエス・キリストを紹介し、その人が神様との関係を回復する手助けをすることがカヴェナントメンバーの役割です。家庭、職場、教室でも、灯台となる約束をして下さい。

まだイエスキリストを自分の救い主として信じる決心をしていない皆さんにお勧めします。あなたも地の塩、世の光として生きる決心をしませんか?多くの人は、あなたがその人に都合良くあってほしいと願います。善意の人は、あなたがあなた自身の思い通りに生きられることを願ってくれるでしょう。しかしイエス様は、愛に生きるために、地の塩として、世の光として生きるために、私に従いなさいと勧められます。ここにいるクリスチャンたちは、このキリストの言葉に従って歩み出した人々です。あなたも十字架の死と復活を信じて、罪を赦された者としてイエスキリストに従って決心をして下さい。  

ユアチャーチ以外の教会のメンバーの方にお勧めします。共に礼拝を守れたことをうれしく思います。新しい年、所属しているキリストの体の一部として血の塩、世の光として成長し、さらに活躍して下さい。もし特別な事情があってそこに身を置きにくい状況であるのだとしたら、関係を修復するか、新しい体に属するかを求めて歩みを進めて下さい。  

教会に属していないクリスチャンの方にお勧めします。神様はクリスチャンを例外なく、キリストの体の一部であることを求めておられます。それは抽象的に見えない一つの教会を意味しているのではなく、地域に存在しているそれぞれの教会のことです。あなたが自分をクリスチャンだと思うなら、目に見える一つの教会に仕えることを神様は求めておられます。ユアチャーチが自分の属すべきキリストの体だと思うならどうかカヴェナントメンバーに加わって下さい。このカヴェナントに同意することができないとしたら、それはそれで良いのです。神様はあなたにもっとふさわしい教会を用意していて下さるはずですから、あなたにふさわしい教会を見つけることをお手伝いします。  

最後に、去年カヴェナントに署名して下さった皆さんにお勧めします。皆さんは誠実にカヴェナントメンバーとして歩んで下さいました。神様はそれに応えて皆さんを成長させて下さいました。神様は今年皆さんがさらにもう一歩前進することを望んでおられます。礼拝において、ささげることにおいて、愛し合うこと仕え合うことにおいて、働きを担うことにおいて、遣わされた場所で塩となり光となることにおいて、もう一歩前進することを誓って署名して下さい。

 

メッセージのポイント
クリスチャンとしての責任ある生き方とは、目に見えるキリストの体の一部として、恵まれることを求めて生きるのではなく、恵みを与えるものとして歩むことです。それはキリストの体の働きの一部として働くということです。この体が健康に働く原動力は、一人一人が心からささげる礼拝です。そして、一人一人が同じ体の一部である以上、礼拝の次に重要なことは体の他の部分と協調すること、つまり互いに愛し合い仕え合うことです。この二つのことを土台として世を愛し、世に仕えることができます。ユアチャーチカヴェナントを誓うことは、恵みを与える者として歩むという決心なのです。

話し合いのために
1) 三つの誓いにはどのような優先順位があるでしょうか?
2) なぜカヴェナントメンバーにあることを勧められるのでしょうか?