January 18th,- 23rd, 2009 Vol.16 No.3

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法2
キリストの霊に導かれて聖なる者とされる喜び
ペトロの第一の手紙 1:10-16

Aイエス様は旧約の時代から“あの時”を告げていた

1) キリストの霊が御自身の誕生を予告していた (10-11)

この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。 (10-11)

旧約の預言者たちは忠実に神様の言葉を人々に取り次いで語りました。それは彼らに対する慰めであり、励ましであり、命令であり、警告であり、時には厳しい裁きの言葉でした。けれども預言者たちには、それら以上に人々に伝えるべき大切な事柄を神様から与えられていました。それは「やがて救い主が来られる」ということです。それは当時の人々が自分で目にすることではなく、その時が来るまで語り継がれるべき事として語られました。人々にとって、世の中の状態が悪ければ早くその時が来ないかと言う願いは切実なものです。預言者たちは、この出来事についてもっと詳しく知りたくて神様の言葉に耳を傾けたのです。その成果が、旧約聖書のいくつかの個所に見られるメシア預言です。彼らは、彼らの内におられたキリストの霊が、キリストの苦難(詩編22, イザヤ53)と栄光(詩編2,110)についてあらかじめ証しされたことについて、誰をさすのか?いつなのか?を探求したのです。  皆さんは神様からの言葉をいただいて人に伝えることを許されていますから、その意味では預言者なのです。旧約の預言者は当時の人々の生き方について神様の言葉を取り次ぐと同時に、救い主が来られることを預言しました。私たちは既に来られた救い主を信じなさい、という神様の言葉を取り次いでいます。そしてまた、終わりが来ることを預言しているのです。旧約の人々があまり預言者に耳を貸さなかったように、現代の人々があなたに耳を貸さないのは当然です。しかし、預言者という自覚を持って語り続けてゆきましょう。語り続けると言っても、預言は言葉だけの表現ではありません。預言者は自身の生き方自体が預言であることを知っていました。今日のテキストは私たちに「聖なる者になりなさい」と命じているのですが、それは私たちの生活全体が、人々にイエス様の救いを語っているような者となりなさいということです。

2) キリストの時は始まり、今も続いている (12)

彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。(12)  

預言者たちは、待ち望んでいる時を自分自身は見ることができないことを知っていました。しかし彼らはイエス様としてこられる以前のキリストを知っており、キリストの霊は彼らの内におられたのです。キリストの時以来の弟子たちは、待ち望まれていた時に生きる者として語り続け、生き続けているのです。そしてこのキリストの時は今もまだ続いています。いまも「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせ」、あなたもまた「天から遣わされた聖霊に導かれた人として人々に告げ知らせて」いるのです。そこで、実際に「聖なる者」として、どのように歩んだら良いのかを13節以下から考えてゆきましょう。

B 聖なる者にされる

1) 今は待ち望むとき (13)

だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(13)

「ひたすら待ち望みなさい」とは何もせずにただ待っていなさいという意味ではありません。「心を引き締め、身を慎んで」という言葉が、今の私たちの取るべき態度を教えてくれています。当時のイスラエルの男性は長くゆったりとした衣服を着ていました。それは気候風土に合ったものでしたが、労働の時には働きやすいようにそれを短くたくし上げベルトのようなものでしっかりと縛りました。引き締めるという言葉は、この縛ることを指したものです。もう一つの「身を慎む」と訳されている言葉の原語は、「酒に酔わない」ことを指すことばです。それは決して、いつも働いていなさい、緊張していなさい、ということではありません。私たちに安息が必要なことは神様も良くご存知です。ただ主の働きのために活かされているということを忘れてはいけません。酔った状態とは自分を自分でコントロールできないことです。クリスチャンにとっては、神様に従っている自分の在り方を忘れて生きている状態のことです。そうであってはなりません。キリストの時が突然来たように終末は突然やってきます。キリストの時がもう2000年も続いているので、私たちは多分それは私よりも何代も後のことだと思い込んでいますが、それには何の根拠もありません。それが明日であっても悔いが残らないように今日を歩む。また、何世代後であっても良いように信仰を次世代に伝える。これが 「ひたすら待ち望みなさい」の本当の意味です。

2) 聖なる者として歩む喜び (14-16)

無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。(14-16)

伝える言葉を持っていることは欠かせないことです。しかしあなたの生き方がその言葉にふさわしくないなら、その言葉は伝わりません。イエス様とともにいる喜びは、それを喜んでいる人でなければ伝えることはできないのです。言葉はつたなくても、その人が喜んでいるならその喜びは人に伝わります。いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい。(テサロニケ1 5:16-18)という勧めはあなた自身のためだけではなく、あなたの隣人のためにもなるのです。ここで私たちに求められていることは、律法的な清浄ではありません。生活のすべての面でという言葉が、何を食べてはいけない、飲んではいけない、これをしてはいけない、こうしなければいけないという事柄を思い起こさせてしまうのですが、それは誤解です。パウロはこれらのことを律法の呪いと表現しましたが、私たちは十字架によって、この呪いから解放された者です。私たちが求められているのは「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子」として毎日を生きるということです。それはあなた自身が主にある喜びを伝える者として歩むというよりも、あなた自身が、神様の与えて下さる喜びで満たされているということです。簡単なことではありません。誘惑や欲望は今も私たちに絶えず働きかけているのです。これらに引きずられないためには、聖なる者となろうという継続する意志を持つことが大切なのです。それは先週お話しした灯台に例えれば、私は唯一の土台にしっかり立っているか?交わりの塔をしっかりとメンテナンスしているか?イエス様を指し示す光は消えていないか?をいつも確かめながら歩むということです。

メッセージのポイント
新しい一年が今までよりもっと「主にある喜び」を実感する時となるように、神様は私たちの信仰を成長させて下さいます。私たちは、「キリストの時」に世におかれ、神の国の完成の時に向かって生きているのです。相続すべきすべての財産(ペトロの手紙I 1:4)を受け取るまでは、約束を信じてその時を待ち望み、罪の誘惑と戦いながら歩んで行くのです。私たちは罪のない者として認められていますが、罪を犯すことから解放されているわけではありません。だから聖なる者となろうという継続する意志を持つことが大切なのです。

話し合いのヒント
1)私たちは何を待ち望んでいるのですか?
2)聖なる者になるとはどのようになることなのでしょうか?