February 1st,-7th, 2009 Vol.16 No.5

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法 4
深く、熱く、永く  (ペトロの第一の手紙 1:22-1:25)

A. 本当に愛し合いたいのなら

神様は聖書を通して私たちに愛し合いなさいと命じます。私たちもみんなが愛し合えたらどんなに素晴らしいだろうと思います。それなのになかなか愛し合えないのはなぜなのでしょうか? マザーテレサは「愛の反対は無関心」と言ったそうですが、確かに「無関心」は普通考えられる愛の反対「憎しみ」よりもっと愛からかけ離れた態度です。私たちがこの世界で今この時、飢えで死んでゆく子供たちに無関心なのだとしたら、イエス様がお生まれになった時に、やがて自分の王位を脅かすものとなることを恐れてその頃生まれた子供たちを虐殺したヘロデの憎しみを非難する資格はありません。しかし関心を持つだけでは愛していることにはならないことも事実です。そこで私は関心を持つということは、愛するという家の門だと思い至りました。しかし「関心を持つ」という門から、「愛する」という家までは、貴族の屋敷のように遠く、その隔たりは超え難く困難に思えます。22節から読んでゆきましょう。

 

1) 真理を受け入れ、魂を清めていただきましょう (22a)

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから(22)

聖書でいう真理とは哲学的な事柄ではありません。イエスキリストという人格についての事柄です。それはイエス様の教え、という意味というよりも、端的にイエス様御自身をさす言葉です。 わたしたちは、この部分を「イエスキリストを受け入れたのだから愛し合わなければいけない」という命令として受け止めがちなのですが、むしろ「真理を受け入れたのだから私たちが愛し合うことのできるのだ」と受け取った方が良いのです。なぜなら、このことは命令されたからといって自分の力でできることではないからです。それよりも、皆さんは、もう既に愛せるようにされているのだ、と考えて下さい。それは皆さんがイエスキリストを主と受け入れているからです。反対に、もしあなたがイエス様に無関心でいるなら、受け入れたくないと持っているなら、あなたには誰とも愛し合うことはできません。愛せるほどに魂を清める方法は真理、すなわちイエス様を受け入れるしか方法は存在しないからです。

 

2) 愛をもっと深く熱く永く (22b)

清い心で深く愛し合いなさい。(22)

この22節の後半をみると、さらにあなたの愛は、清い心からの、しかも深いものであるはずですというのです。この深いと訳されている言葉には「もっと深く、もっと熱く、もっと永く」という意味が込められています。イエス様の私たちに対する愛を基準として考えたなら、私たちの愛はいやになるほど表面的で、生温く、気まぐれなものなのではないでしょうか。私たちの愛には深みがありません。表面的には金の輝きを持っているようでも、それはメッキであって簡単に傷ついてはがれてしまうものです。自分のおかれた環境や相手の態度によって愛するという意志は簡単に消えてしまいます。神様との関係においても、人間関係においても燃えるような熱心さはあまりみられません。また、その熱心を一時的に発揮しても、いつでも、どこでも、誰にでも、という一貫性もなければ、愛し続けるという持続性もありません。しかしそのような私たちの愛を、もっとイエス様の愛に近づけることができるのです。23節以下で、イエス様の愛がどのようにしてわたしたちの内に可能になるのか、ということを見いだすことができます。

 

B. 真理=主の言葉=イエスキリスト

1) 神様の言葉としてのイエス様 (23)

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(23)

物事の変化、特に人の心の移り変わりには虚しさを感じます。しかし私たちはその虚しさにつきあっていてはいけません。私たちはイエスキリストによって、イエスキリストの愛に生きるために新しく生まれた者なのです。この事実が、愛する生涯の出発点です。イエス様の存在そのものが私たちに対する神様の語りかけです。ペトロ、ヨハネ、ヤコブがイエス様とともに山の上に上り、イエス様の姿が今までみたこともないほど神々しいものと変わった時、ペトロは自分でもよくわからないことを口走りました。すると神様は彼らに語りかけられました。「これはわたしの愛する子、私の心に適う者、これに聞け」 この時、彼らはイエス様が単に優れた先生ではないということに気付きました。どうか皆さんも気付いて下さい。イエス様御自身が真理であり、神の言葉であり、私たちがたどるべき愛の道なのです。私たちは神様の語りかけ、つまりイエス様御自身に応え続けることによって、愛において成長してゆくのです。

 

2) イエスキリスト以外に真理はない(24-25)

こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(イザヤ40:6-8) これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。(24-25)

旧約聖書は人を、草花にたとえている個所がいくつかあります。それらは、わたしたちが美しく咲く瞬間はあってもいずれは枯れてしまう者、また環境の変化に弱い者であることを教えてくれています。ペトロは、その一つであるこのイザヤの言葉を紹介して自分に頼ることの虚しさを戒めています。イエスキリストに出会い、愛に生きることを決心した私たちですが、その深さ、熱さ、永さを損なう要因は至る所に存在しています。そこで私たちは、この愛の深さ、熱さ、永さを保つために修練や経験、先人の知恵に頼ろうとしてしまいがちなのですが、それらは決定的な力にはなり得ません。さらに進めば無力感に耐えられず、考えないことにしてしまう。つまり「関心を持つ」という門の外にまで後退してしまうことになってしまいます。けれども私たちには決して変わることのない希望があるのです。ペトロはそれこそが神様からあなたへの福音(よいしらせ)だと断言しています。それは生きている神様の言葉=イエスキリストです。イエスキリストに信頼を寄せ、聖書を通してもその言葉に教えられ、励まされるなら、あなたはもっと深く、もっと熱く、もっと永く愛する人として歩むことができるのです。

 

メッセージのポイント
「愛し合おう、誰もが幸せに生きられる平和の世界を築こう」というスローガンに反対する人はいません。けれどもそれが実現しないのはなぜでしょう?愛し合うことができないのはなぜでしょう?それは、聖書が伝えている愛し合うことを可能にする「真理」を受け入れていないからです。神様はイエスキリストとして御自身を表され、わたしたちがイエスキリストによって神様とつながることを求められました。彼が道であり、真理であり、命なのです。この真理を受け入れた人は、もっと深く、熱く、永く愛することができるのです。

話し合いのヒント
1)世界には愛という言葉は氾濫しているのに愛が乏しいのはなぜですか?
2)イザヤ40章の言葉はあなたにとってどのような戒めですか?