February 15th,-21st, 2009 Vol.16 No.7

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法 6
あなたの自由を正しく使おう (ペトロの第一の手紙 2:11-1:17)

 聖書は私たちが日常で使っている言葉で書かれていますが、中には社会で広く理解されている意味と異なる意味で使われている言葉があります。そして大抵の場合、それらは私たちにとって大変重要な意味を持っています。例えば先月学んだ「畏れ」ということばの概念、また「罪」あるいは「罪人」という言葉の概念などは、社会一般で理解されている概念より深く本質的なものです。今日、よく考えてみたい言葉は、16節にある「自由」です。

自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。(16)

先週、「私たちは皆キリストの祭司です」とお話しした時にも少しふれた、宗教改革者マルティン ルターには「キリスト者の自由」という著作があります。それは、「クリスチャンは全ての者の上に立つ自由な主人であって誰にも服しない」「クリスチャンは全ての者に仕える僕であって誰にでも服する」という一見、かけ離れた二つの命題から説き起こされています。これは使徒パウロの言葉「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(1コリント9:19)から導き出されたものです。このことが成り立つのは、十字架にかけられた神の子イエス様においてでしかありません。ルターは「キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。」(ルター『キリスト者の自由』、石原謙訳、岩波文庫、p42)と勧めています。キリストに従って生きることこそ、真の自由を生きることなのです。今日のテキストは、この「自由」を生きる具体的な勧めです。一つ一つ心に留めてゆきましょう。

 

A. 旅人としてこの世界に束縛されていない私たち。しかし・・・・・・

1) 欲望をコントロールする

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(11)

ある人々は、自分の欲望を満足させることこそ自由だと考えています。しかしペトロはそれを避けなさいと勧めているのです。その根拠は、1)肉の欲は魂の自由を奪うものだから 2)私たちがこの世では旅人であり、仮住まいだから、という二点です。 世の中では、自由とは自分の思い通りになること、自由=勝手というのが普通の解釈です。自分の欲望に従って願いを実現させることができる環境を自由だと考え、それは当然の権利だと信じているのです。しかし実はそのことが人を不幸にし、魂の自由を奪っているということになかなか気がつきません。実は間違った自由なのに、それを得ていないことで心に平和がなく、自分の力に任せて自由を追求すれば自分の自由のために人の自由を奪うことになってしまいます。欲望によって得ることのできるものは、蜃気楼のように遠くに逃げてゆき際限がありません。 クリスチャンはそのような地上の原理から自由にされている者として、世では旅人であり、仮住まいの身であると表現されています。本当の自由を知っているのだから、この世の強欲なレースに巻き込まれてはいけないのです。

 

2) 立派に生活する

また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(12)

クリスチャンは、いわば神の国のパスポートを持ってこの世を旅しているわけです。このパスポートは危機に陥った時に神様が介入して下さるという安心の保証である一方、このパスポートにふさわしく振る舞わなければ、神様の名誉を汚すことになってしまうのです。 クリスチャンはこの地上でどのようにも振る舞うことができます。「この世とは関係ない、この世の穢れには染まりたくない」と荒野で暮らすことも出来ます。「すべては許されているのだから」と欲望の赴くままの生きることも出来るのです。しかし私たちに勧められているのはそのどちらでもなく、またそのどちらよりも困難な生き方です。罪の力の支配に妥協するのではなく、戦いを挑みます。しかし同時に、その支配に服している人々とともに生きるのです。忍耐すること赦すことが求められ、しかもすぐには見返りは期待できないのです。賞賛されるどころか悪人呼ばわりされる事もあるでしょう。しかしそれでもイエス様に従って歩むあなたの生き方を見ることによって、イエス様に近づく人が出てくるのです。もっと力を、もっと愛を、忍耐を、と祈りつつ歩んでゆきましょう。

 

B. 社会制度をどう考えるか

1) その仕組みの中に生きていなければ人々に影響を与えられない

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。(13-15)

独裁的な国に住み、圧政や貧困に苦しんでも、その政府を倒したり、あるいはそこから逃げ出したりすることは神様の意思に適わないことなのでしょうか?そうではありません。イエス様は当時のイスラエルの権力を公然と批判しました。イエス様が彼らに服従していたら、キリスト教はなかったでしょう。かといって、イエス様は暴力的に政府を倒そうとはなさいませんでした。そうなさっていたとしたらやはりキリスト教はなかったのです。それはどちらもすべての人の罪を十字架であがなうという神様の計画にはそぐわないことだったからです。イエス様は当時の社会の中で弱いもの小さい者とともに歩まれ、愛に生きることを教えられました。誰でも、どんな状態におかれていても愛に生きることができるということを、身を以て教えて下さったのです。それがどんな仕組みを持った社会であれそこに入ってゆかなければ、そこにいる人々の魂にふれることはできません。その国の外から、その在り方を批判することは簡単ですが、一番重要なことはそこに住む人々の魂に届くことです。今おかれている場所が神様の理想からはほど遠いと逃げ出すことも出来ます。しかしその体制に従いつつも人々の魂に福音を届けることが自分の使命かもしれないと考えてみることも大切なのです。

 

2) しかしそれは盲従することではない

自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。(16) すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。(17)

私たちには「自分の義」を人々に押し付ける権利はありません。しかし「神様の義」を追い求めることはこの世におかれたクリスチャンの責務です。私たちの自由は自分を喜ばせるためにではなく、人々の喜びのために用いるように命じられています。ここで困難なのは皇帝を敬うということについてです。皇帝と訳されていますが元々は王を意味する言葉です。時の支配者、権力者と言い換えても差し支えないでしょう。私たちは権力者に虐げられている人々に向かって、あなたには天の国が待っているのだから、この世では我慢しなさい、というべきなのでしょうか?法律で差別が認められているなら、それを守れと言うべきなのでしょうか?このことを考える時に、イエス様が自らの生涯によって示された重要な原則があります。それは、人の自由を奪った上に成り立つ自由は本当の自由ではないということ、僕となるのは自分であって、人に強いるものではないということです。聖書に書いてあるから、あなたは服従しなさい、今の身分で我慢しなさいという権利は誰にもありません。まだ完全ではありませんが民主主義、国民主権は聖書の教える社会の在り方を実現しています。それが実現していないところで苦しんでいる人々に手を貸すことはクリスチャンのするべきことなのです。ではなぜ、パウロは奴隷のままでいなさいと勧めたのでしょうか、ペトロは皇帝を敬いなさいといったのでしょうか?それはその時の状況のなかでは相応しいことだったからです。何千年も前に書かれた聖書の言葉が私たちに教えてくれることを、自分たちに都合良く解釈するのではなく、正しく解釈されなければなりません。正しくというのは神様の意思に適ってということです。そのためには私たちが知的にも霊的にも神様をもっとよく知ろうと努力し続けることが大切です。

 

メッセージのポイント
自由とは、欲求に従って思い通りに振る舞えることではありません。自由には常に責任が伴うのです。 クリスチャンにとって、その責任は互いに対するものであるに留まらず、神様に対する責任でもあるのです。イエス様は、御自身の自由を誰にもまねできない形で行使されました。人となられたというだけではなく、人としても最も苛酷な重荷を自らの意志で負われ、その罪によってもはや神様に対して責任を果たす能力を失った、すべての人のために死んだのです。愛に生きるということは自分に死ぬということです。本当の自由とは自分勝手に生きることではなく、愛に生きることなのです。聖霊の力によって愛に生きてゆきましょう。本当の自由を満喫しましょう。

話し合いのために
1) 私たちはどのような意味で旅人、仮住まいの身なのですか?
2) あなたは自由ですか?自由とはどのような状態のことですか?