February 22nd,-28th, 2009 Vol.16 No.8

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法 7
僕(しもべ)の心 (ペトロの第一の手紙 2:18-25) カディール マーティン

A. 僕と主人

私の国インドネシアではこの二つの言葉は今でもとても一般的で、私の頭の中ではとても具体的な用語です。新約聖書では奴隷とその主人たちのことについて語っている箇所が、たくさん見つけられます。(エフェソの信徒への手紙 6:5-8, コロサイの信徒への手紙 3:22など) このペテロの手紙は、 当時、たくさんのクリスチャンが奴隷の身分であったクリスチャンコミュニティのために書かれています。多くのこのクリスチャンの奴隷、彼らはほとんどが異教の主人に雇われていました。 このペテロの手紙の中の僕と主人の立場については、新約聖書のほかの部分とは違っています。それは罰に耐え、ののしりにも耐え、鞭打ちにも耐え、十字架のはりつけにも耐えたキリストの姿を基本的な奴隷として用いているからです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピの信徒への手紙2:6-8)

インドネシアでは召使いを雇うことは一般的なことです。一人だけか、もっと召使いを雇うかは雇い主の経済的能力によります。ここでいう召使いとは、レストランのウェイトレスでもなく、ホテルのスタッフでもなく、そういった接客を必要とされるところで仕える者ではありません。. もう少し小さい、一つの家の中での範囲です。私の両親はいつも、やはり家で召使いを雇っていることを思い出します。 召使いの仕事はぎっしい詰まっていて大変です。ほとんどが朝早くから始まり、朝ごはんを用意して、家の中も外も掃除をして、洗濯をして、私たちのお昼ご飯を用意します。犬小屋の掃除までもしなくてはならず、それでもまだたくさんの 仕事が待っていて、それはほぼ一年中、毎日同じなのです。 そして召使いの給料というのは、低いものと考えられているのです。彼らに高いレベルの教育は必要ありません。大抵の人たちは地方や、遠い村から移住してきた人たちなのです。  召使いは主人の家に住み、その家を楽しみますが、悲しいことに主人からの不公平な待遇、食べ物の種類や、食べるためのお皿、飲み物のグラス、洗剤の種類までも区別するなどといったことも見られます。それはとても公平には聞こえませんね。  私は大きくなるにつれて、召使い無しの家の生活がどれだけ大変か分かってきました。特に休みの時期に入ると、いつも召使いは家族の集まりのために自分たちのホームタウンへ帰る許可をもらいます。ですからこの時は多くの主人たちにとっては、最も大変な時なのです。私たち家族は力を合わせて全てのことをやらなくてはいけません。毎日この全ての仕事を一人の召使いがこなしているなんて、考えたこともありませんでした。  主人はよく召使いを疑ってかかります。もしも何かが無くなってしまったら、たとえそれは主人が最近どこかに置き忘れたせいであっても、召使いがターゲットになってしまうのです。そういう訳で、召使いが主人と簡単に合わないというケースがたくさん見られるのです。召使いが一日働いただけで辞めてしまったり、最も早い人はたったの数時間です。主人が召使いを家族のように愛して、家族の一員だと考えるケースも、またあるのです。

 

B. 召使いの心には何がある?

a. 従う心 (v.18)

召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 18節の中で弟子ペテロは従うという言葉を強調しています。 聖書は私たちに、主人に従いなさいと教えています。インドネシア語の聖書でも従うという言葉に、おそれ敬ってと加えられています。. 従うという言葉を考えるときに、主人というよりも神様に対する正しい義と考えるほうが参考になるかもしれません。神様を恐れるということにも、似た関係が見られます。 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。(コロサイの信徒への手紙 3:22)

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。(エフェソの信徒への手紙6:5-7)

ペテロはキリストの苦しみを、私たちが踏み従う足跡の模範として用いています。 違う言い方をすると、もし神様をおそれ敬うなら、ひどい主人の脅しにも鞭打ちにも耐えることができるでしょう。 私たちは誰を模範として考えることができますか?両親よりも、先生よりも、上司より、牧師よりも、誰よりも考えられる人です。イエス様に起こったことを考えてみましょう。 イエス様は神様の子として、どのように神様に従ったのでしょうか? イエス様は私たちのために無い罪を着せられ、その不当のために死なれました。イエス様はご自分自身を生きた犠牲として、私たちのために捧げて下さいました。私が強く言いたいことは、イエス様は十字架の上で死なれたということです。イエス様はそれは神様の計画であることを知っていました。イエス様は父である神様を愛しておられました。ですから神様がなさろうとしていたことに、ただ従いました。 誰かのために死ぬことは簡単なことではありません。しかし、イエス様は捧げて下さいました。イエス様は最も神様に従う者なのです。  私は日本に滞在するために、日本政府に税金を納めなくてはならない義務があるのですが、その納税額は安いものではありません。それは私にとってとても難しいことです。私はここではただの移住者であることは分かっていることなのですけれど。できればそのお金は個人的な支出にあてたり、貯金をする方がいいのですが、払うことに、たとえ重たい気持ちであっても、最終的には従います。日本に来て一年目からそれを続けてきています。2006年の9月に私は永住ビザを取ろうとしました。 もちろん私が用意しなくてはならない事のリストがありました。予想外にこの3年間の納税証明書がそのリストに入っていました。私は全て払ってきたので、それを見て安心しました。 最後には永住ビザをもらう事が出来て、政府のもとに従うということを学びました。

 

b.忍耐する心 (v.19-20a)

不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。

何か不当な目にあう時に、忍耐をよく試されることになりますね。何が耐える鍵なのでしょうか? インドネシアで数年前にテレビで見た、あるタバコの会社のコマーシャルを思い出します。インドネシアではタバコ会社の競争が激しく、 低いニコチン含有料でも同じ香りのタバコを売ることを競い合っています。 あるタバコ会社ではリンボーダンスの動画を見せて、“どれぐらい低くいけますか?“というモットーを使っています。このモットーは私たちの忍耐を測る目安にすることができると私は考えます。 自分たち自身で忍耐することを謙虚さを持って、訓練するのです。 謙虚になること、これが忍耐することに適した鍵だと感じています。

 

c. 善を行う (v.20b)

しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

一度ミニチャーチで、仲間からのプレッシャーについて話したことがありました。 おそらく学校などで、そういったクラスメイトや友達からのプレッシャーを経験したことはあると思いますが、またあまり正しくないと思われることに囲まれている状況で、正しいことをする難しさを経験することもあるかもしれません。 それはとても私のようなタイプの人には難しい練習です。なぜなら多くの場合にNOと言う事が難しいからです。 いつもYESと言ってしまうのです。それが私の弱点です。 正しいことをすることを選ぶときに、他の人にがっかりさせられたり、苦しんだりかもしれません。 イエス様はNOが言えない人ではありません。イエス様は私たちに一番ベストを選ぶ方です。 十字架を避けるために何かしようと思えば出来たはずです。それでもイエス様は最後まで従いました。善を行いました。

 

d. 委ねる心(v.21-23)

あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

23節ではイエス様の神様へ委ねる姿の模範を見ることができます。 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

 

メッセージのポイント
イエス様は最後まで心を込め、忍耐強く、誠実な僕でした。この世界におられる間は完全に委ねることを貫きました。今日は僕の心の中に何があるかを学びました。神様はそんな僕の心を持つ“誰か”を探しておられます。あなたはその“誰か”になりたいですか?

話し合いのために
1) あなたの主人は誰ですか?
2) 僕の心とは何ですか?