March 1st,-7th, 2009 Vol.16 No.9

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法 8
愛する人に信仰と祝福を (ペトロの第一の手紙 3:1-7) 

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。(1-2) あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。(3-5) たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。(6) 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。(7)  

このテキストは、直接的には夫婦の互いに対する態度についての教えですが、どのような人間関係であってもここから従うことの重要性を学べます。その基本は、このシリーズで学んできたように、クリスチャンは誰に対しても自由であると同時に誰に対しても仕える僕であるということです。この基本を念頭において、きょうのテキストに向き合ってゆきましょう。  さて、ここには従うことによって、相手がキリストに導かれるというという喜ばしい結果を期待できることが記されています。クリスチャンには、誰にも周りの人々をキリストに導くことが期待されています。相手が配偶者でなく、両親、子供、兄弟、友人、上司、同僚、先生、生徒に対してでもここに書かれている原則は当てはまります。今日はそのために大切なことを4つに整理してお話しします。それは、相手が誰であれ 1)心を込めて相手のいうことを聞き、気持ちを理解しようとする態度。 2)礼拝、祈り、クリスチャンの交わりをとおして自分自身の内面的な人格を磨いてゆくこと。 3)自分の弱いところを素直に認めて助けてもらうこと。 4)自分の良いところ、強いところを自慢するのではなく相手のために喜んで使うことです。この原則は、あなたが男であれ女であれ、誰に対してでも当てはまるものです。

A. 愛する人を信仰に導く

1) 彼(彼女)の気持ちをしっかり汲み取る (1-2,6)

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。

たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。

多くのクリスチャンが誤解しているのですが、伝道とはあなたの信仰の内容を語って聞かせ,説得して信じさせることではありません。もちろん、あなたの信仰を説明して下さいと聞かれた時に、それに良く応えられるよう準備しておくことは大切です。しかしもっと大切なことは,あなたの日常の生活態度なのです。ここにはっきりと無言の行いによって信仰に導かれると書かれています。このことに当てはまるのは御言葉を信じない「夫」だけではありません。わたしたちは皆、誰かに導かれてキリストを信じる者となりました。それは説得されて納得したからだったのでしょうか?その人の神を畏れる純真な生活を見て、私も信じたいと思ったのではないでしょうか?  そこであなたが、イエス様を知ってもらいたい人にできることは、よく仕えるということです。それは命令された仕事を忠実に行う、という以前に、心を込めてその人の言葉を聞き、その背後にある気持ちを汲み取ることです。心が離れているなら、その人をキリストに導くことはできません。  サラは、私たちと同じ弱さと愚かさを持った女性です。しかし夫アブラハムの老人の域に達してからのカナンへの旅に従って共に歩んだことを、私たちは見習うことができます。アブラハムは主の言葉に従って旅立つことを決意しました。その言葉を自分のこととしても受け止めて、共に歩んだのです。共に歩んでいるその人が、今神様を信じていようといまいと、その人もまた神様の御手のうちにあるということを信じて仕えてゆきましょう。

2) 内面的な人柄を磨く (3-5)

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。

美しい物を美しいと思い、それを身につけたいと思うことは自然なことです。神様はそのようにすべての動物をお作りになりました。人間も例外ではありません。自分を視覚的にアピールすることは悪いことではないのです。ただ感覚的な魅力は人を一時的に引き寄せる力しかないということを知らなければなりません。 また神様は人の外面ではなく内面をご覧になります。そこで、内面を美しく装うことが大切になります。誰もが内面の美しさを重要だと言いますが、内面の美しさはどう装えばいいのでしょうか?それは、神様の愛が自分のうちに満たされることを祈り求め、神様の愛の意思に従って行動してゆくことによって磨かれてゆきます。

愛する人とともに祝福に与る

1) 自分の弱さを認め、パートナーに従う (1)

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。

ここでもう一度一節に戻りたいと思います。この箇所は自分に向かって書かれてはいない、と思う人がいるでしょうか?私は夫なのだから妻に従う必要はないと思っている男性がいるとしたら、その人の聖書の読み方は間違っています。私たちはこの箇所の「妻たちよ」のところに自分の名前を入れ夫のところに、イエス様を信じてもらいたい人の名前を入れて読むことができます。こう言うと、聖書は文字通り受け取らなければいけないと主張する人々に批判されるかもしれません。しかしそのような人々こそ、聖書の読み方に自分の価値観を持ち込んでいます。二千年ほど前に何百年にもわたって、またいろいろな場所で書かれた聖書の言葉には表面的には矛盾があるのです。聖書は誤りのない神様の言葉ですが、時代と文化という制約の中で、そのときのそこで通用していた言語で記されたという事実を無視してはいけません。たとえば私たちは旧約聖書をユダヤ人のようには読みません。クリスチャンはイエス様が教えてくださった福音の本質というフィルターを通して旧約聖書を読んでいます。その原則は新約聖書でも同じことです。時代や文化の制約の中で書かれた聖書を私たちが正しく読むためには、福音の本質に従って解釈することが必要なのです。福音の本質とは愛です。それは、このシリーズのコンテキストでいいかえるなら「完全に自由な者が進んで僕となる」ことです。このことは性や、年齢、人種の違いで割引することができません。 弱さを持たない人はいません。あなたにも弱いところはあるのです。一方で、まだイエス様を知らないあなたの大切な人は、その点であなたより強いかもしれません。そのことを恥ずかしく思う必要はないのです。クリスチャンであれば、あらゆる点で模範にならなければいけないと考えてしまう人がいますが、それは不可能なことです。弱いところは弱いままでよいのです。そして素直に助けてもらいましょう。クリスチャンのくせにと言われるかもしれませんが、そこで落ち込んだり、言い返したりしてはいけません。あなたの助けが必要なのですと素直に求めましょう。その人を助けているのも神様なのです。もちろんそんなことを付け加える必要もありません。あなたが心で思っていればよいことです。あなたが自分の弱さを認めることは、伝道の妨げにはなりません。むしろそれは、イエス様を知らないという決定的な弱さを相手が受け入れる第一歩です。

2) 自分の強さを正しく用いる (7)

同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。

何でこの人は、このことに関してはまったくだめなのだろう? 誰かに対してそんな風に思ったことはありませんか?どんな相手であれ自分より弱いところがあるものです。そのことでその人を見下してはいけません。むしろ、尊敬しなさい、尊敬をもって助けなさい、というのがこの部分の教えです。特に、すでに生活をともにしている人に対しては命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさいと勧められています。聖書では、従うということ、尊敬を受けるということとの間に矛盾はありません。私たちは、すべての人間関係において、誰もが相手に尊敬を受ける自由な者であると同時に、誰にでも従順に仕える者でありなさいと教えられているのです。私たちはこの理想的な人間のあり方を、私たちはただ一人イエス様のうちに見ることができます。世界のあらゆるものの支配者である神様が人となられ、しかも姦淫の罪を犯した女性にも、まとわりついてくる子供たちにも見下した態度をとらず、むしろ仕える者として接してくださったのです。弟子たちに足を洗わせたのではなく、ご自身が弟子の足を洗ってくださったのが私たちの主イエス様なのです。私たちの罪の性質によって、立場が強い者が弱い者に対して、尊敬を持って接することは難しいことです。しかしイエス様を見習って、聖霊の力と知恵に頼って、人々に仕えてゆきましょう。

メッセージのポイント
このテキストは直接的には妻と夫に対する教えですが、どのような人間関係であってもここから重要ないくつかのことを学べます。クリスチャンには、誰にも周りの人々をキリストに導くことが期待されています。相手が配偶者でなくてもここに書かれている原則は大切です。そのために大切なことは、相手が誰であれ 1)心を込めて相手の言うことを聞き、気持ちを理解しようとする態度。2)礼拝、祈り、クリスチャンの交わりをとおして自分の内面的な人格を磨いてゆくこと 3)自分の弱いところを素直に認めて助けてもらうこと。4)自分の良いところ、強いところを自慢するのではなく弱い人のために喜んで使うことです。この原則はあなたが男であれ女であれ、また相手が誰であれそうするべきことです。

話し合いのために
1) ペトロはなぜこのようなことを書き送ったのだと思いますか?
2) 人を信仰に導き、共に祝福に与るための4つの原則を自分の言葉で表現して下さい。