March 8th,-14th, 2009 Vol.16 No.10

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法 10
神様がなさることを見よう! (ペトロの第一の手紙 3:8-18) 

A. 世界を祝福で満たす

1) 召されたのは何のため? (8-9)

終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(8-9)

ペトロは2章11節から様々な立場の人々に勧めてきましたが、そのまとめとして、一致、同情、兄弟愛、憐れみ深いこと、謙虚であることをもう一度繰り返しています。特定の立場の人に求められることではなく。誰もが心に留めるべきことです。今日はこれらのことに重点を置いてお話しをしませんが、少し整理しておきましょう。まず一致ということですが、ただ一致すればいいというものではありません。悪い計画のために一致して行動する人々もいるのです。私たちの一致はイエスキリストにあって心を一つにすること以外の何ものでもありません。同情(be sympathetic)は、元の言葉の意味はもっと強いことばで、「苦しみを共にする」という、もっと積極的なものです(英語ならpity やsympatheticよりも compassionateに近いものです。NIVではcompassionate をその次に使っていますがそこはmercifulの方が近いように思えます)。愛すること、憐れみ深くあること、謙虚であることは日々の歩みの中でイエス様に学んでゆくことです。  これらのことは私たちにとって大切なことですが、そうなるということが人生の目的ではない、ということを忘れてはいけません。霊的に成長することは目的ではなく、それらが求められるのは「祝福を受け継ぐ」という本当の目的に必要なことだからです。 召されたという言葉を私たちは普段使いませんが、それは特別な働きを担うために呼び出されるという意味の言葉です。私たちは、自分の幸せのためにイエスキリストを自分の神様として選んだのではありません。神様の祝福を地に満たすために、神様に選ばれ招かれたのです。神様はなぜ、他の誰かではなく私たちを選ばれたのでしょうか?私たちが優れているからでも、良い人だからでもありません。むしろ弱い者であり小さな者です。それは神様の憐れみ以外の何ものでもありません。神様は弱い者、小さな者を用いて御自身の計画を実行されるのです。

2) 神様がなさること (10-12)

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。 主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」 (10-12)

召された者は召した方の働きを担います。召された方の働きの一部分を担うのです。これはあなたが神様のためにして差し上げることではなく、神様とともに働かせていただくことなのです。ここは詩編34編13−17節の引用です。前半の私たちへの勧めは積極的な行動の勧めというよりは自分をコントロールしなさいということに重点がおかれています。それとは対照的に、後半記されている神様がなさることは、とても積極的で頼もしいと思いませんか?この二節をあわせてみると、私たちの第一の役割は自分で何かをするというより、神様が御自身の目と耳と顔を働かせてなさることを邪魔したり無視したりしないで、存分に活躍していただくことなのだということがわかります。

B. 偉大な事業には困難が伴う

1) それでも伝え続けよう (13-16)

もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。(13-16)

善いことをすれば誰でも喜んでくれれば一番よいのですが、そういうわけにはいきません。その人に益となることをしてくれれば喜んでもらえますが、神様の祝福を伝えるという、善いことの中でも最も優れたことをしようとするとき、義を行うことによる苦しみが起こります。ただ神様と共に歩もうとするだけで、そのことを好まない人々からは好意を得ることはできません。攻撃を受けることさえあるのです。 ただこのことには気をつけなければならない点があります。聖書が義という時、それは神様の義、神様の心にかなう正しさであって、人間の立場によって異なる正義ではないということです。私たちは自分の義を神様の義とすり替えてしまう傾向性を持っていることを知らなければなりません。自分の側に問題があるのに、それに気付かず、自分が神様の義を行っているので攻撃されていると思い込んでしまえば、義のために苦しんでいるのではないことになってしまいます。私たちは人を恐れたり、心を乱したりすることによって、そのような状態に陥ります。そのような時、大きな声で主をあがめられないような状態であっても、心の中で主をあがめましょう。 また、相手が求めていないなら、無理に、あなたがイエス様においている希望を伝えなくてもいいのです。しかし、なぜ神様を信じる必要があるのか弁明を求める人には分かりやすく大胆に説明する必要があります。しかしそれも声の大きさや、口数の多さや、威圧的な態度でしてはいけません。神様の福音には穏やかさと、敬意と正しい良心が相応しいのです。弁明を求められた時に穏やかさと、敬意と正しい良心をもって答えられるように、自分の抱いている希望について、よく祈り、よく読み、よく考えて、弁明の準備は少しずつしておきましょう

2) イエス様のように (17-18)

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。(17-18)

イエス様は十字架の苦しみを、私たちの罪のために、私たちの悪のために受けられました。それは私たちを神様のもとへ導くためでした。後一ヶ月でイースターを迎えますが、それが大きな苦しみと死の後のことであったことを忘れることはできません。その苦しみは、私たちを神様の前に導くためのものでした。 私たちが誰かを神様のもとに導きたいと思うなら一人一人が小さなキリストとなって、イエス様の苦しみを共に苦しむのです。イエス様が十字架の上で私たちの罪の苦しみを共にして下さったことに応えて、今私たちは、主の苦しみを共に苦しむのです。 イエス様が自分のために何をして下さるかを求めるよりも、私がイエス様のために何が出来るかを求めるほうが尊いことです。しかしもっと大切なことは、神様が御自身の栄光を現すために何かをなさることを求めることです。この教会は神様のものです。この教会の働きは神様御自身の働きであることをおぼえ、期待して待ち望みましょう。

メッセージのポイント
私たちは祝福を受け継ぐ者として、神様に選ばれたました。悪い態度をとられても、侮辱されても、そのような人の祝福を祈れることは、わたしたちに与えられた大きな特権です。善い生き方を続けてゆくなら、あなたは神様の側にいます。神様とともにいれば、それを喜ばないで、あなたに苦しみを与える人が起こります。聖霊の働きは、私たちがそのような人々を恐れたり、心を乱したりしないように、また迫害の中でも主をあがめることができるようにして下さることです。私たちの主イエスキリストは私たちを呪われた者から祝福された者に変えて下さったので、私たちは呪う者ではなく祝福を受け継ぐ者として生きることができるのです。

話し合いのために
1) 義のために苦しみを受けることがあるのはなぜですか?
2) あなたが抱いている希望とは何ですか?