March 15th,-21st, 2009 Vol.16 No.11
肉における残りの生涯(ペトロの第一の手紙 3:19-4:6)
イエス様は信仰が心を伴わない形式的なものになってしまうことも、信仰は心の問題なのだから儀式など全く必要ないということも、どちらも誤りであると警告しておられます。イエス様は当時の宗教指導者たちの心を伴わない形式的信仰を非難され、イエス様御自身は世の終わりまで続けなさいと二つの儀式を求められました。バプテスマと聖餐がそのたった二つの儀式で礼典と呼ばれています。儀式というと、形だけの所作というイメージが強いのですが、イエス様はもちろん形式を守らせたかったのではありません。私たちにとってこれらは単なる形式的な儀式ではなく、教会の目に見えるしるしであり、私たちがクリスチャンとして生きているしるしなのです。今朝のテキストは私たちに、その一つであるバプテスマの意味とバプテスマを受けた者の人生の在り方について教えてくれます。
A. バプテスマの意味 (3:19-4:2)
そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。(3:19,20)
ペトロは、創世記の洪水の物語を人間の救いという観点から再解釈して、私たちが新しい生き方をするように勧めています。それは 1)私たちの罪は滅ぼされなければならないほど深刻である 2)この罪はすべての人を支配している 3)神様に耳を傾けて従うことによってのみ新しい命をいただける ということです。 話の本筋ではないのですが、この個所は信仰の立場によっていろいろな解釈がなされている個所です。素直に解釈すれば、神様に従ったノアたちを馬鹿にし、神様にそむけ続けた死んだ者にまでイエス様は十字架にかかって死んだ後に黄泉に下って宣教をなさった、ということです。
バプテスマは、イエスキリストを主と信じ従う決心をした人が受けることを命じられている礼典です。イエス様が死からよみがえられたことによって、その罪のために死んでいた私たちの魂も新しく生かされました。バプテスマには、私たちがこの決意を心の中のものではなく、神様と人々の中で明らかにすることという意味があるのです。
この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。(21)
ペトロがここで書いているように、バプテスマを受けると不思議な力でけがれが洗い清められるというようなものではありません。むしろ、正しい良心を持つことを願い求めて神様に従って行く自分の意志を表わす行為なのです。新約聖書の時代の教会にはバプテスマを受ける時、西を向いてひざまづき、東に向き直って立ち上がるという習慣があったそうです。それは古い世界を去り新しい世界に入ることを意味しています。あなたがまだ主イエスキリストを信じて従って行こうと決意していないなら、あなたはまだ古い罪にけがれた世界に属しているのです。あなたがけがれているとか、誰かに比べて罪深いといっているのではありません。あなたが自分の意志でそこに属することを選んだわけでもありませんから、その意味ではあなたの責任でもないのです。けれども、はっきりしていることは、そこに留まるかぎり正しく生きることはできないということです。なぜ正しく生きなければいけないのですか?と疑問に思う人がいます。聖書の言う正しいとは、神様の心にかなっているということです。つまり、神様の目に正しく生きようと思わないなら選択肢は一つしか残されてはいません。それは自分の思うままに生きるという選択です。この選択をした人の人生においては、どれほど思い通りに事が進んでいたとしても、満足感は得られません。砂漠を旅している時に見えるオアシスの蜃気楼のように、手に入れれば入れるほどゴールは先に行ってしまうのです。まして、うまくいってないならその不満は計り知れないほど大きいのです。正しく生きようとしている人も、不満や失望をおぼえないわけではありません。けれども、目標であるイエス様が全く変わることなく、愛し続けて下さることを実感しているので、三歩進んで二歩下がるような歩みであっても、希望はなくならないのです。心の中が希望で満たされているので目に見えるオアシスがあってもなくても、歩み続けることができるのです。まだあなたが、イエスキリストだけに従って歩んで行こうという決心をしていないなら、今がその時かもしれないと自分の心に問いかけてみて下さい。決心が与えられたなら、バプテスマを受けて下さい。
B. バプテスマを受けてからの人生
1) 人間の欲望にではなく神の御心に従って生きる (3:22-4:2)
キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。(3:22-4:2)
バプテスマを受けたら何がどのように変化するのでしょうか?それはあなたがもはや自分の欲望にではなく神様の意思に従って歩む者になったということです。表面的には何の変化も起こりません。しかし、私たちを内面から変えることのできる方とともに、歩み始めたのです。皆さんの車にはナビゲーションシステムがついているでしょうか?神様の意思に従って歩むということは、人生を最も信頼のおけるナビに導かれて生きるということです。自分の欲望を満足させるために生きることをやめたら、神様も人々も、自分自身も喜ぶ新しい歩みが始まります。同じ砂漠の道であっても、彷徨っているのではないので、オアシスの幻に一喜一憂することもありません。導いて下さるイエス様に従って、一歩一歩着実に歩む。それがわたしたちに与えられている。豊かな、実り多い「肉における残りの生涯」なのです。しかしそれは決して平坦な道ではありません。イエス様に従うということはイエス様が受けられた同じ苦しみを共に担うということでもあるからです。楽しい旅ですが、楽な旅ではないのです。
聖霊の助けを借りて古い自分と決別することは、自分の欲望に従って生きるということをやめるということです。私たちは皆、自分の欲望がとてもコントロールしにくいものであることをよく知っています。これに負けて、神様を悲しませ、人々を傷つけてしまうことをしてしまうこともあるのです。だから私はクリスチャン失格だと思う必要はありません。誰かに押し付けられた人間の決まりでなく、神様が何を私に望んでおられるのかをよく聞いて歩むという姿勢を崩さなければ神様はあなたを正しい道に導くことを決しておやめにはなりません。カーナビはトンネルなどで衛星からの電波が受け取れなくなり迷子になってしまうことがありますが、障害物が無くなればまた受け取って自分の位置を確認できます。間違って道をそれても新しいルートを教えてくれます。神様はそれ以上に正確に辛抱強く私たちの人生を導いて下さるのです。大切なのはあなたが神様に信頼をおいて従うこと、従い続けることです。神様とのチャンネルをきってしまえば、地図もナビもなしで初めての道を走るような人生を送ることになるのです。
かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。 (4:3,4)
あなたが神様に従って人生の方向転換をすると、不快に思うのは、それまでのあなたを知っている人々です。あなたがそれまでの生き方を否定したということは、今でもそのように生きている人の生き方を否定することになるからです。私たちは、神様の素晴らしさを伝えたいと願っていますが、あなたが以前の生き方に疑問を持ったように、その人も生き方を改めたいと思うのでなければ、せっかくのよい知らせも受け取ってはもらえないのです。それではどうやって神様の素晴らしさを伝えたらよいのでしょうか?それはあなたの新しい生き方を見てもらうこと以外にはありません。
彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(4:5,6)
日本に福音がもたらされたのは、多くの宣教師の働きによるものです。その感謝を忘れるわけには行きません。しかし残念ながら、中には聖書を全体として注意深く読まずに、キリスト教の歴史の中で現われた一つの考え方に支配されて、その考えを聖書全体の教える読み方に優先して伝えた人々も少なくはなかったのです。それは、「この世で生きているうちにクリスチャンにならなければ天国には行かれない」という考えです。今読んだ部分と先に読んだ3:19-20をあわせて考えれば、イエス様の宣教は信じることなしに亡くなった人々にもなされるのです。生きている間でなければならないという根拠は、コンテキストを無視した読み方をしない限り、聖書から見いだすことはできません。今日はこのことが主題ではないので詳しく話す時間はありませんが、興味がある方は週報で紹介している論文を読んでみて下さい。 この考え方は、地獄に行くか、イエス様を信じるか、二つに一つと迫る伝道を生み出しました。この伝道方法は日本では通用しません。多くの人は自分の愛していた人々が地獄に落ちるしかないのに自分だけ天国に行きたいとは思わないのです。だいたい、このような脅迫的な伝道は聖書の教えではありません。 イエス様が世界に宣べ伝えなさいと命じ、御自身も私たちが行けない黄泉に下って宣教されたのは、できるだけ多くの人が「神との関係で、霊において生きるようになるため」です。だから、肉における残りの生涯をどう生きるかが大切です。それは肉にあっても霊的に生きられる時です。あなたの周りの人々はあなたの生き方を見ています。その人は、生きている間にクリスチャンにならなかったとしても、イエス様の前に立つ時があり、あなたの生き方を思い起こすでしょう。それは、あなたが何を言ったかではなく、あなたがどう生きたかです。イエス様は、地獄に堕ちたくないから信じますという人ではなく、心から従って歩みたいという人を喜ばれます。 イエス様を信じて従ってゆきたいと思っている方はぜひバプテスマを受けてその決心を表わして下さい。まだ確信が持てないという方もおられると思います。自分を信じて生きるのか?誰かを信じて生きるのか?誰も信じないで生きるのか?イエス様が十字架で苦しまれ死なれたのは、あなたが罪赦され、神様との関係で正しく生きることができるようになるためでした。どうか本当に信頼できる立ったお一人の神、主イエスキリストを信じて、新しい人生を始めて下さい。バプテスマを受けた方も、それがゴールではないことを理解していただけたと思います。キリストの体であるあなたの生き方を見て、人はイエス様を知りたいと思うのです。イエス様を心から信頼して歩んでいる人の姿こそ、周りの人々に対する最も効果的な伝道です。残された生涯を悔いなく主に従って歩みましょう。
メッセージのポイント
バプテスマは、罪に支配された古い人生を捨てて、キリストとともに歩む新しい人生をはじめる決心の目に見えるしるしです。体を洗い清めたり、新しい服を着るだけでは私たちの中身は新しくはなりません。バプテスマを機械的に受けても同じことです。心から神様に従うことの決心でなければ意味はないのです。聖霊の働きがなければ、この心からの決心をすることはできないし、バプテスマを受けた者に相応しく歩むことはできません。聖霊に満たされて、肉における残りの生涯を悔いなく歩んでゆきましょう。
話し合いのために
1) バプテスマは何のしるしですか?
2) バプテスマを受けた者にふさわしい歩みとは?