March 29th,-April 4th, 2009 Vol.16 No.13
創造主にあなたの魂をゆだねる(ペトロの第一の手紙 4:12-19)
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(12,13) あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14) あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。(15) しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。(16) 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。 「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。(17-18) だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。(19)
イエス様を主と信じ歩む道が祝福に満ちていることは疑いありません。しかし、それは常に楽しく気楽なものであるわけではありません。イエス様は、決してそのような将来を約束しておられるのではなく、神様に従い福音を宣べ伝えようとするなら、身近な人から敬われないばかりか、迫害され、そのために命を捨てることさえあるのです(マルコ8:34-37)。それでもイエス様は、私に従って来なさいと呼びかけておられます。あなたはこの呼びかけにどう応えますか?
A. この世の苦しみもいろいろ
一言で苦しみといってもいろいろな苦しみがありますが、ペトロはその原因によって二つに分けて教えています。順番が前後しますがまず15節を読んでみましょう。
あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。(15)
クリスチャンがそんなことを?と言いたいところですが、私たちに対する罪の誘惑の力は決して侮ることができないということを知るなら、簡単にクリスチャンである私がするはずがないとはいえないのです。私たちがクリスチャンらしく生きるためには聖霊の助けが必要であり、「私を聖く保って下さい」という祈りは、この地上の生涯の最後の日まで続けるべき祈りなのです。四番目の他人に干渉する、ということですが単に「おせっかいな人」といった軽い意味ではありません。他人の人間関係に首を突っ込んで、その関係を破壊してしまうようなことを意味しているのです。 これらの苦しみは受ける価値のない苦しみです。だから、避けるべきくるしみなのです。
ところが受ける価値のある苦しみもあるというのです。14,16節を読みましょう。
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(14) しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。(16)
イエス様が地上の歩みをされていた時に、イエス様を非難していた種類の人々が、イエス様が天にお帰りになったあと、その体である教会を攻撃の対象とするのは当然のことです。教会の歴史はキリストの体に連なった者に対する迫害の歴史でもありました。真理に従おうとするなら避けられない苦しみです。しかしそのような苦しみの中を歩む時に、神様の霊はその人の上にとどまっておられます。誰が反対しようと、苦しめようと、神様とともにある喜びに満たされるのです。キリスト者という日本語は硬い表現です。英語のクリスチャンの元となったギリシャ語クリスティアヌスは元々反対者たちの「キリストに狂っている奴」という悪口でした。しかしクリスチャンたちはそう呼ばれることをむしろ誇りに思ったのです。皆さんはそのことで苦しみを受けても「私はイエス様に夢中です、狂っているといってもいいくらい喜んでいます」と言えるでしょうか?
ここでペトロはふれていませんが、自分に非がなくても他の人のすること、言うことによって苦しむことがある、ということを付け加えておきたいと思います。それは自分の罪でもなければ、じぶんの信仰のためでもない、外因性の苦難です。それはペトロの指摘した二つの苦しみに比べれば納得できない苦しみです。多くの人にとってその原因がわからないからです。しかしクリスチャンはこの原因も罪であることを知っています。それは神様に背を向けた社会全体の罪です。社会を構成する一人一人の罪が複雑に絡み合った総体が世界の至る所でいろいろな形で吹き出して人々を苦しめているのです。しかし、この苦しみはクリスチャンにとって、罪が原因であっても無意味な苦しみではありません。そのような時にこそ働く神様の力と恵みと慰めを受けるからです。そしてその経験は、後から似たような苦しみに遭う人を助ける力となるのです。
B. キリストの苦しみに与るという恵み
もう一度12、13節に注目して下さい。
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(12,13)
苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさいとは、苦しくても喜んでいる振りをしなさいということではありません。なぜ苦しむことが恵みなのでしょうか? それはイエス様がすべての人のために苦しまれたのと同質の苦しみであるからです。イエス様に遠く及ばない私たちが、その苦しみ与ることができるというのは特権でさえあるのです。この苦しみは日々主に似た姿に変えられてゆく、という霊的成長の痛みです
再び主が来られる、という希望を持っていますか?私はこのことをあまり強調して話してきませんでしたが、イエス様は必ず来られます。世の終わりというと恐ろしい光景ばかりを想像しがちですが、あなたにとっては今までに感じたことのないほどの大きな喜びとなるのではないでしょうか?あなたが死を経験する前にイエス様にお会いでき、イエス様があなたの手を握ったり、ハグして下さるということを想像してみて下さい。大きな苦しみを乗り越えてゆかなければならないとしても、この喜びに与ることを目指して進み続けることができます。
C. 創造主に自分の魂をゆだねよう (17-19)
今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。 「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。(17-18) だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。(19)
信仰に対する反対や迫害にとどまらず、困難なこと、悲惨なことは起こり続けます。それらのこともやはり「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」 政治問題、民族問題、環境問題、自然災害が次から次へと悪いニュースを提供しています。私たちの身の回りでも、事故、病気、不和などが起こります。しかし神様が教えていて下さっていることは、最大の問題は私たちの魂にあるということです。それは決してその他の問題に関心を持たなくても良いということでは決してありません。そのことに対して自分が出来ることはベストを尽くさなければなりません。私たちはそれぞれの立場で、自分の技術や経験、職務を通して自分のできることで社会に貢献しているのです。けれどもクリスチャンである私たちにはもう一つ大切な務めが与えられています。それは人々の魂のケアという務めです。これは牧師、宣教師の務めではありません。すべてのクリスチャンの務めなのです。牧師たちの務めは、すべてのクリスチャンがその務めを全うできるように整えることなのです。 私たちが、そのような存在であり続けるために最も大切な態度は、神様に自分の魂をゆだねるということです(マタイ16:24-、マルコ8:34-、ルカ9:23-) 。それは、様々な問題の中でも喜んでいることのできる唯一の態度です。ただ魂は物ではないので、ゆだねるといってもどうしたらそうできるのか分かりにくいのですが、それは礼拝と主にある交わりによって養われてゆくものです
メッセージのポイント
この世では苦しみを避けることはできません。自分自身の行動が後で自分を苦しめることもあれば、自分に原因がなくても苦しみを受けることがあります。クリスチャンにとってはもう一つ、イエス様を信じ従ってゆこうとする時に受ける苦しみです。しかしクリスチャンにはそれを乗り越える力が与えられており、その先には大きな喜びが待っているので、苦難の中にあっても、他に喜べることがなくても、イエス様とともに歩めることを喜んで生きてゆけます。どんなことがあっても、神様が自分の心を守っていて下さることを信じて、神様に喜んでいただける歩みを続けましょう。
話し合いのためのヒント
1) 何でこの世界には苦しみが存在するのでしょうか?
2) 苦しみを乗り越えてゆくためは何が必要なのでしょうか?