April 12th,-18th, 2009 Vol.16 No.15

イースターメッセージ

もう死ぬことがない? (ローマの信徒への手紙6:4-11)

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:4-11)  

先週私たちは十字架の意味を深く考えながら一週間を過ごしました。そして今朝、イエス様の復活を喜ぶためにここに集っています。十字架の出来事と復活の出来事は、私たちに正反対の感情を起こさせるコントラストの強い二つの出来事ですが、実は同じ「私たちに示された神様の愛」の最も典型的な二つの側面なのです。十字架の死がなければ、復活は起こりようがありません。復活がなければ十字架は義人の死以上のものにはなり得ませんでした。イエス様の死と復活のどちらかだけではなく、その両方を、神様の愛の深さを知りましょう。

A イエス様の死と私たちの死 (ローマ6:4-7)

1) 十字架と洗礼 (4,5)

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

クリスチャンになるとバプテスマを受けます。それは教会の一員となることのしるしですが、そこには深い意味があります。バプテスマは古い自分のお葬式です。イエス様がよみがえられるために十字架の死を受け入れなければならなかったように、新しく生きたいと思うなら古い自分は葬ってしまわなければならないのです。あなたがさよならした自分とはどんな自分でしたか?私がさよならしたかったのは思いやりのない、自分勝手な、怒りっぽい、生きる価値のない自分でした。何で自分がそういう者なのかという理由も分からずイライラと生きていました。聖書を読んでそれが人間の根本的な罪というものだということを知りました。罪とは、すべてを創られた神様からはなれている状態のことです。聖書はイエスキリストを救い主と信じ彼に従うことによって、この罪を赦されると告げていました。十字架に掛かり苦しみ死なれたイエスキリストを信じるとき、私はイエス様と一体とされて古い自分は死んだのです。

2) 罪からの解放 (6,7)

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。

クリスチャンになることは罪からの解放を意味していました。神様から遠く離れていた状態が罪であるなら、解放は神様のもとで生きることができるようになったことを意味します。自分の問題を知りながら自分ではどうすることも出来ない私たちの無力さを、パウロは続く7章で罪の力よりも弱い、善を行おうとする意志と表現し詳しく説明しています。 ここで体と言われているのは肉体という意味ではありません。心も体も魂も含んだその人の全存在という意味です。むしろ肉体は罪に陥る弱さを持ち続けています。神様は私たちをそのような状態のままで赦し、義しい者と定めて下さいました。罪のもとでの長い生活で染み付いた汚れ、傷をそのままで受け入れ、連れ戻していただいたのです。誰でも、心や体のあちこちが傷つき故障してうまく働かなくても、新しく傷のない魂として、神様のもとへ帰れるのです。イエス様がそのために十字架に掛かって下さったからです。

B イエス様の復活と私たちの永遠の命 (ローマ6:8-11)

1) 神様とともに生きる (8,9)

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

あなたがイエス様を主と信じた時から、罪を十字架で赦されたと信じた時からあなたの新しい命は始まりました。この約束の内にとどまる限り、もう罪に支配されることなく神様とともに生き続けることができるのです。ぼろぼろの魂のままで救われた私たちには癒しのプロセスが必要です。もう改めて赦される必要はないけれど、癒される必要はあるのです。神様は、救ってあげたのだからあと一年でとか十年で完璧な人になりなさいとは命じておられません。魂の癒しは、この地上での歩みの全行程を通してなされます。神様はあなたの信頼に応えてあなたを決して見放すことがありません。永遠にあなたとともにいて下さる方なのです。

2) 神様のために生きる (10,11)

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

わたしたちに与えられた新しい命は、主とともに生きる命であるだけでなく、主のために生きる命です。さきほどお話ししたようにより良い人になることを急ぐ必要はないのです。というより、良い人になる努力といっても、私たちに出来ることは実はさほどあるわけではないのです。もしあなたが、神様や隣人のためによい人になりたいのなら、良いことをすることです。それは、神様のために生きるということです。先週、イエス様を乗せてエルサレムに入って来た小ろばについて少しお話ししました。私たちはあの子ろばのようであればいいのです。足元がおぼつかないような歩みであっても、神様はそのことを喜んで下さり、力を与えて下さることでしょう。今生きて共にいて下さるイエス様に導かれつつ、そのような姿勢で歩んでゆくなら、すこしずつかも知れませんが、以前よりもっと良くできるようになるのです。神様がして下さる私たちの魂の癒しは、ベッドに寝かされたままの薬による治療でもなく、あっさり悪い所をきってもらう手術でもなく、神様の働きをするといういわばリハビリテーション的な癒しです。神様のために生きることは、人々のために生きることでもあります。そしてそれはあなた自身の癒しと成長のためにももっともよい歩み方なのです。

メッセージのポイント
十字架にかかられたイエス様は、三日目によみがえられました。私たちは十字架の出来事で完全な赦しが与えられただけではなく、イエス様の復活によって新しい命を生きる者とされたのです。復活は主がわたしたちのために死に打ち勝ち、私たちが永遠に主とともに生きる者とされた根拠となる出来事です。もう私たちには恐れるものは何もないのです。死も病いも貧困も地上のどのような問題も、私たちを絶望させることができません。

話し合いのためのヒント
1) 十字架と復活は私たちにとってどのような意味があるのですか?
2) 神様に対して生きている、とはどのような意味なのでしょうか?