April 19th,-25th, 2009 Vol.16 No.16

仕え合うために大切な四つのこと (1 Peter 5:1-7)

さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。(1)

ペトロはこの第一の手紙で「互いに仕え合うことの大切さ」を解いてきましたが、この手紙の締めくくりの部分の前半に当る今日のテキストで、私たちが互いに仕え合うために大切な四つのポイントについて教えてくれています。教会が本当にキリストの体であるために、私たちの誰もが実践するように勧められているこの四つのことを心にしっかりと留めて下さい。

1) 献身的に牧する (2)

あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。

クリスチャンは誰でも人を導く者であり、従う者でもあります。牧師でなくても、ミニチャーチのリーダーでなくても、例えばお母さんは子供たちの指導者です。ここで一番若い人たちは中学生ですが、弟や妹のリーダーであり、クラスの中でのリーダーでもあるのです。あなたが実際のリーダーでなくても、あなたの周りの人々は、神様があなたにゆだねた羊たちだからです。いつかお話ししたように、おかれた場所でクリスチャンは牧師の役割を与えられているのです。  与えられている役割は羊飼いです。それは守り、成長させ、送り出すことです。そのことを嫌々ではなく、自分自身は神様に従うものとして、自分の利益のためではなく、むしろ犠牲を払ってそうしなさい、と勧められています。それはまさにイエス様の歩まれた道です。

2) 群の模範となる (3,4)

ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

自分がしていないことを人にさせようとするのはとても無理があります。そうするためにはアメや鞭を用いなければなりません。アメや鞭とは、ご褒美や罰、競争を煽ることなどによって、人の欲望や恐怖心に訴えて動機付けすることです。この方法はあらゆるところで用いられています。この社会では当然のこととして受け入れられていることです。教会の中にも入り込んでいます。しかし、聖書はそのように教えてはいません。私たちが期待すべき栄冠はただ一つだけ、それは世の終わりにイエス様が再び来られる時に与えられる誉れです。それは実際に純金で宝石のちりばめられた王冠ではなく「永遠の命」です。また私たちの恐れるべき罰は「永遠の滅び」(神様からの断絶)以外にはありません。そこで私たちもまた、ゆだねられている人々が、この正しい動機によって正しく歩むことを勧めることが大切なのです。このことを教える方法は一つしかありません。それは、あなた自身が神様とともに歩むことを喜び、神様の心を喜ばせたいという願いが動機となって行動していることを見せることです。それは単にやって見せるということではありません。問われているのはあなたの心です。

3) 謙遜を身に着ける (5,6)

同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。

このことが困難なのは、私たちの持っている罪の性質は謙遜とは正反対の高慢だからです。神様に頼ることをしらない社会では、謙遜は徳ではありません。ギリシャにおいても望ましい態度とは考えられてはいませんでした。けれども、神様は旧約の時代から謙遜の大切さを聖書を通して教えておられました。ペトロはここで箴言3章34節を引用して、謙遜であることは互いに対する態度としてある前に、第一に神様に対する態度として大切であることを教えています。模範になることについての教えと同様に、ここでも問われているのは謙遜に見える振舞いではなく、謙遜な心です。あなたが神様に対して本当に謙遜なら、誰に対してもそうであるはずです。 

4) 思い煩いを神様に委ねる (7)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

最後に思い煩いを神様に任せるということについてお話しします。「思い煩いを神様のお任せする」ことは、ここまでお話ししてきたことの中でも、最も重要な点です。なぜならこれがなければ、初めの三つは成り立たない、人の力ではできないことだからです。このことを考える上で「思い煩い」と「お任せする」という二つの言葉を再検討してみる必要があります。  この部分ははっきりとした引用ではありませんが詩編55章25節を意識した勧めです。思い煩いの原語は、心が大切な一つのことに集中されていない状態を意味する言葉です。ですから、思い煩いの反対は、単に悩みがないということではなく、心を一心に神様へ向けることです。思い煩いをなくすには、それらを気にしないようにしようと考えるのではなく、心を一心に神様に向けることの方が効果的です。  「任せる」という言葉は、日本語では積極的な言葉ではありませんが、英語には反映されているように、原語では「投げかける」という意味を持った強い言葉です。神様はあなたの思い煩いをしっかり引き受けて下さいます。それなのに私たちが、様々な思い煩いにとらわれているということは、神様にお任せしておけばいいことで悩み、心を向けなければならない神様の意志に無関心でいるという二重の間違いを犯していることになります。マタイによる福音書6章25節以下に、イエス様御自身が、「思い煩うこと」の、無意味さとそこから抜け出す方法を教えて下さっています。それを要約すればこういう内容です。 「あなたがたは、思い煩ったからといって自分ではどうすることも出来ないことで心を痛めているけれど、神様は片時も忘れることなく、あなたを守っています。思い煩うことは神様を信じない人がすればよいことです。あなたがたがするべきことは、何よりもまず神様の力と正義がもっと広く世界に及ぶように、神様とともにあゆむことに集中することです」

メッセージのポイント
仕えるとは誰かのために何かをするだけではなく、自分の人生をその人のために捧げることです。人生を捧げるほど価値のある存在は神様以外にはありません。私達はそのことに気付いて神様に仕える者とされたのです。その神様が私達に互いに仕え合いなさい、と命じておられます。より良く仕えるために心掛けるべきことは、献身的であること、模範となること、謙遜であること、そして最も重要なのは、神様を信頼することです。

話し合いのために
1) あなたのリーダーは誰ですか?
2) あなたは誰のリーダーですか?
3) それらの人々にあなたはどう仕えていますか?