April 26th,-May 2nd, 2009 Vol.16 No.17

困難な時でも恵みのうちを歩める (1 Peter 5:8-14)

ローマ帝国のキリスト教の迫害は苛酷でしたが、この手紙の時代にはまだ国家によって組織された迫害は始まってはいなかったと考えられています。しかし組織的な迫害がなくても、イエス様を主と信じ、従って生きることに対する攻撃や困難はどんな時代にもあるものです。神様の意思に従って生きようとすれば、そのことを快く思わない者の攻撃に遭うのです。困難は様々な形で私たちを襲いますが、その背後に悪魔、サタンという存在があることを聖書は教えています。それは霊的で人格的な存在です。伝統的には堕落した天使だといわれています。サタンはその手先である悪霊たちを働かせたり、人間や人間の組織を用いたりして、神様を信じる者を攻撃し、その心を神様から引き離そうとするのです。使徒言行録の6〜8章にキリスト教会の最初の殉教者ステファノのことが書かれています。神様の恵みと力に満たされ、素晴らしい不思議な業としるしを行い、議論をしても誰も歯が立たなかったので、当時の宗教指導者の煽動された人々によって石で撃たれて殺されました。その時彼は、神様に大声で呼びかけました。それは「彼らに罰を与えてください」とではなく「彼らにこの罪を負わせないで下さい」でした。それは彼が、人々の背後に本当の敵、サタンがいることを知っていたからです。わたしたちもまた、さまざまな困難に遭う時にいたずらに当事者を恨んだり呪ったりするのではなく、むしろその背後に働く本当の敵に対してイエス様とともに抵抗することを学びます。前半では困難に直面した時にこそ重要な三つの態度。後半では、困難に直面しても恵みにとどまることを可能にする「交わり」についてお話しします。

A. 困難な時にこそ・・・・・

1) 目を覚ましていよう (8)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(8)

この節を読んで、皆さんはどのような映像を思い浮かべますか? 私はハリーポッターやロードオブザリングに良く出てくる、グロテスクで恐ろしい敵が木の陰で息を殺して主人公を探し回っているような光景を思い浮かべてしまいます。私達は映画の主人公のように劇的ではなくても、自分の物語の主人公として、困難に直面します。困難に直面した時に最初にとるべき態度は、困難に直面しているという事実を認めるということです。困難を無視していても、それが去ってしまうわけではなくむしろ事態を悪化させます。しかし多くの場合、私たちが最初に取ってしまう態度は、無視することです。自分が困難に直面していることを認めるのは怖いことですが、はっきり困難と言う相手を正面に見て戦うしか方法はありません。実際に圧倒的な力が襲ってきた時、しっかり見ているなら、すぐに対抗できなくても、安全なところに身を隠すことはできるのです。この罪の世にあって目覚めているのはクリスチャンの特権です。多くの人は、本当の敵を知らず、従って本当の戦いを無意識のうちに避けているのです。知れば知るほど恐ろしく、また手強い敵ですが、私たちは神様とともに決着のついた戦いの最後の局面におかれているですから、神様の助けを得ながら戦い抜きましょう。

2) 信仰に踏みとどまろう (9)

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。(9)

信仰の故に苦しむと言うことがあることをイースターの前にお話ししましたが、ここでも同じことが繰り返されています。これは信仰を捨ててしまえば受ける必要のない苦しみです。しかし、信仰を捨ててしまうことは、敵を前にして戦うことを放棄し、もういちど寝たふりをして目をつぶってしまおうとすることです。信仰なんて人生の戦いには役立たない、重たいから捨ててしまった方が良いとサタンは勧めるのです。しかし、それを捨ててしまうことは、人生の戦いにおいて唯一の武器を手放すことになります。私たちに人生の戦いをあきらめさせるのが、サタンの目的です。私たちはまず自分がこの武具で敵に立ち向かうこと。次に、この武具を持て余している仲間を励ますこと。そして、信仰を持たずに寝ている人に、直面している危機と、それに対抗するための信仰を教え教えるよう、勧められているのです。

3) 祈りつつ待ち望もう (10,11)

しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。(10,11)

戦いにもいろいろな局面があります。積極的に攻勢に出るような時もあれば、じっと敵から身を潜めて、仲間の到着を待つような時もあります。今、何をすべきなのか?何をすべきではないのか?何を待ち望むべきなのか?何をあきらめるべきなのか?を知る必要があります。その中でも、私たちがより困難を覚えるのは、忍耐をして待たなければならないことです。そしてそのような局面はとても多いのです。しかし私たちは主イエスキリストにあって何でも耐えることができますと宣言するべきです。なぜならイエス様はあらゆる恵みの源であり、私たちは永遠の栄光に招かれている者だからです。この世界に生きている限り苦しみは無くならないのですが、私たちはそのような時にも耐えられるような、祈りという神様とつながるトランシーバーをもっているのです。

B. 恵みに踏みとどまるための交わり

1) キリスト教会全体の交わり (12,13)

わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。(12,13)

この国では、クリスチャンの人口は1%だと言われています。一つ一つの教会に生きた枝としてつながっている人という基準で考えるとさらに少なくなります。そしてその数はほとんど増えていないのです。問題はクリスチャンになる人が少ないということではありません。毎年クリスチャンになる人は多いのですが、それとほとんど同数の人が教会の交わりからはなれて行ってしまうということなのです。せっかくイエス様とのチャンネルを持つことができたのに、スイッチを切ってしまい通信をやめてしまう人たちです。ペトロが、この恵みにしっかりと「踏みとどまり」なさいと命じていますが、それは、恵みから脱落してしまうのは簡単なことだからです。この恵みはイエス様の体である一つの教会を大きな木とみるなら、そこにつながっていなければ、実を実らせることはおろか、その命さえ維持することはできないということです。

2) 一つの教会の交わり (14)

愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。(14)

わたしたちは、キリスト教会という大きな一つの木の幹に、ユアチャーチという一本の枝を通してつながっている細い枝です。この具体的な交わりがなければ、自分がクリスチャンだと思っていても、クリスチャンとして生きていることにはなりません。互いに挨拶を交わせるくらい近くの人を愛さないなら、イエス様を愛しているなどという資格はないのです。ユアチャーチの中が平和でなければ、私たちは平和の使者にはなれません。様々な機会をとして互いに愛し合うことにおいて成長してゆきましょう

メッセージのポイント
信仰を持ち続けることはそれほど簡単で気楽なことではありません。それはペトロの時代も今の時代も変わりありません。しかし、信仰は神様の恵みを得るための唯一のチャンネルです。あなたに、このチャンネルを放棄がさせることは悪魔の願いなのです。悪魔の策謀に乗せられないように目を覚まし、信仰に踏みとどまりましょう。そのために交わりは大きな助けとなるものです。

話し合いのために
1) なぜ信仰を失ってしまう人がいるのでしょうか?
2) 交わりとは何ですか?なぜ交わりが必要なのですか?