May 10th, - 16th, 2009 Vol.16 No.19
イエス様を知らせよう (2 Peter 1:16-21)
A 人々に神様を知らせよう (16-18)
わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 (16-18)
先週、神様の事をもっとよく知ろうと努めましょう、とお勧めしました。それは神様を知れば知るほど豊かな恵みと平和のうちに歩めるから、また偽教師の教えに惑わされる事を防げるからです。しかし主をよく知ることには、もっと主を伝えることができるようになるという、効果もあるのです。この手紙には、人々がただ偽教師から守られるだけでなく、もっと積極的に、この地域の人々が正しく主を伝える人になってほしいという願いも込められています。ペトロは自分の経験をふまえて、主が来られた事をどう伝えたら良いのか私たちに教えてくれています。ペトロはイエス様とそのお働きの、そして十字架と復活の直接の目撃者でした。だから作り話をする必要はなかったのです。ただ目撃者として、体験した者として、ここに本当の愛があると呼びかけずにはおられなかったのです。 私たちは有名な人がクリスチャンになったとか、極悪人が回心したというような話に比べると、自分の回心はなんて平凡なのだろうか、そんな話で誰がクリスチャンになりたいと思うだろうか、と思ってしまいますが、神様はありのままのあなたを用いられるように、ありのままのあなたの物語を用いられます。神様が用いられるのは、あなたの回心の物語だけではありません。あなたのクリスチャンとしての歩みを、人々の救いのために用いられます。だから自分は元々クリスチャンの家庭に生まれて、劇的な回心の経験がないので、イエス様は自分を用いて人々を救いに導くはずはないと思わないで下さい。イエス様を伝えるのに、作り話はいらないのです。あなたを通して人々を招かれるのは、あなたの物語が劇的だからではありません。あなたの物語が作り話ではなく、本当の話だからです。言い換えればあなたの生活の一部にクリスチャンという部分があるのか、それとも全生活を主に従うものとして歩んでいるのかの違いが問われているのです。例えば信仰を子供たちに伝えたいのは、クリスチャンの共通の願いですが、子供は親の本気度がどれほどのものであるか簡単に見抜いてしまいます。自分が本気ではないのに伝える人に本気になりなさいと言っても説得力はありません。
作り話が虚しいなら、私たちは何を伝えることができるのでしょう?ここでぶつかる疑問は、ペトロのような直接な目撃者ではない者がどうイエス様を伝えることができるのだろうか?聖書のお話しをしてあげる事しかできないのではないか?というものです。 初代のクリスチャンでなくても、あなたはペトロのように、目撃者であり、体験者です。イエス様の地上での歩みも十字架も復活も、私たちは見たわけではなく、信じているだけです。それでも私たちは目撃者、体験者です。なぜなら、私たちはキリストの体を通して生きて働かれているイエス様を体験しているからです。キリストの体には、他にはない愛、受け入れ、赦しがあります。これは人間社会の中で自然に作り出されるものではありません。むしろ神様の主権を認めない社会は憎しみや拒絶、無関心、断罪を生み出し続けています。あなたが神様の愛に真剣に生きている事が、目撃者、体験者として生きていることになるのです。
B 人々に聖書の約束を伝えよう
こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。(19)
社会は依然として暗いままです。また人々の心も、救い主を知らずに暗いままの状態です。しかし、幸いなことに私たちは、夜明けが来ることを知っており、聖書の言葉によってそれをいつも確認することができるのです。しかも、私たちの心には、救い主を受け入れたことによって、取り巻く社会よりも先に夜明けが来ているのです。聖書の言葉は、あなたの物語が真実のものである事を保証してくれます。そこで私たちは、少しでも私たちの生き方に興味を持ってくれる人には、聖書を読む事を勧めるのです。聖書は私たちの魂にとって、闇を照らす光です。聖書は、道徳、良い生き方の教え、人間関係学、歴史、哲学として読めます。実際に信仰を持たないのに聖書を愛読している人もいます。でもそれ以前に、聖書は読む者に決断を求めます。ここに証しされているイエスキリストを主と信じ従いますか?それとも、今まで通り自分を主と信じ、聖書は参考程度に、自分の都合に合わせて読みますか?それは同じように聖書を読むといっても、全く違う事です。あなたの勧めによってある程度聖書を喜んで読み続けている人には、機会を捉えてこのことを告げなければなりません。イエス様はすべての人を、キリスト教の良き理解者にしなさいとおっしゃったのではありません。すべての人を弟子としなさいとおっしゃったのです。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(20, 21)
偽りの教えを説く者も、聖書を用います。一見、本当の聖書の教師に見えます。偽教師と呼ばれる人々の多くは、自身は正しい教師の弟子だったのです。モルモン教やエホバの証人の初代の指導者も、かつて普通の教会に属していました。彼らのような別の団体を作ってはいなくても、イエス様の十字架のあがないや復活を信じていない教師が導くグループでもキリスト教会を名乗っている場合があるのです。なぜそのようなことが起こるのかといえば、ここに書いてある「自分勝手な解釈」ということが起こるからです。キリスト教会は真理から逸れ始めるという危機を何度か乗り越えてきました。先週、皆さんに差しあげたニケア・コンスタンティノープル信条は教会の中に公に三位一体を否定する人々が現われた時、全教会が集まって聖書の真理を確認した300年代後半の二回の会議の成果です。信条は神様の言葉ではありません。しかし、神様の言葉である聖書を勝手に解釈する事がないように、当時の教会が心を合わせ祈りを合わせ知恵を合わせて定めたものなのです。私たちの聖書理解が自分勝手なものにならないためにも、キリストの体の一部である教会にしっかりつながった枝として、その交わりの中で聖書を学び、本当のイエス様の教えを伝えましょう。
メッセージのポイント
なぜ、私たちはイエス様のことを人々に告げ知らせるのでしょうか?そうしなさいと命令されているからでしょうか?そうではなく、それが余りにも素晴らしいニュースなので知らせずにはいられないからです。確かに聖書には「福音を宣べ伝えなさい」と書かれている個所がありますが、それは命令というよりも私たちの気持ちを肯定し励ましていてくれるのです。自分が確信している素晴らしいことを伝えるのは難しいことではありません。率直に感じているイエス様の素晴らしさを伝えるのであって、教義や神学を教えるのではないのです。ただ、自分がこの聖書の言葉に慰められた、励まされたということを伝えるとしても、それが自分勝手な解釈に基づくものであってはなりません。自分の読み方が正しい解釈とかけ離れていないか、教会の交わりの中でよく確かめてみましょう。
話し合いのためのヒント
1) イエス様をどのように紹介していますか?
2) どうしたら聖書の言葉を正しく理解できますか?