May 24th, - 30th, 2009 Vol.16 No.21
その日が来ることを忘れてはいけません (IIペトロ 3:1-7)
愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。(1) 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。 (2) まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。(3-6) しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。(7)
普通手紙を書くとき、わざわざ手紙を書いた理由や目的を書いたりはしません。こんな書き方をするとすれば、それは読み手が真剣に受け取ってアクションを起こしてもらいたいからです。ペトロの目的は、1)偽教師の教えに惑わされてしまっている人々の、記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせること。 2)彼らに、聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうことでした。
愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。
「記憶を呼び起こして」と呼びかけているということは、読み手の心が一度は純粋で燃えていたということです。ペトロたちが身の危険も顧みず伝えた福音が誰かに届きその人の心が主に向かって純真な愛に満たされた時のペトロの喜びは、この時憂いに変わっていました。彼らの場合は後で触れる偽教師の影響によって引き起こされた事態でした。私たちも様々な理由で、初めの愛を忘れてしまう危険にさらされています。私は、時々この10年間にバプテスマを授けた人々の顔を思い出すのですが、その中のある人々はすっかり神様から背を向けた生活をしています。このことも残念な事ですが、これらの人々は確信を持ってそうしてしまったのですから、今のところは私たちにはどうすることも出来ません。ペトロが呼びかけているのは、主とともに生きているつもりで実はそうではない人々と、その人が属している教会です。純真さが失われた心は、イエス様の教えから離れ、その人は気付かずに神様を悲しませる生活をしているのです。しかしこの状態には希望があります。記憶を呼び覚ますチャンスがあるからです。その最も大きなチャンスは礼拝です。真剣にささげる礼拝の中で私たちは忘れかけていた記憶を取り戻す事ができます。あなたが生活の中の最優先のこととして礼拝を大切にし、毎回真剣にささげる事は、自分の記憶を呼び覚ますだけでなく、誰かの彷徨いかけていた愛の記憶を取り戻すためにも大きな助けとなるのです。
聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。
もう一つ私たちが思い出さなければならないことがあると、ペトロは教えてくれています。それは2節にある「預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟」です。人々はそこから離れて偽りの教えに影響を受けていました。どのようなことでも、基本に戻る事は大切だと言われますが、神様のことについては特に大切なことなのです。教会堂がどんなに素晴らしい音楽に満たされていたとしても、そこで語られるのが偽りの教えであるとしたら、それは敵である悪魔に私たちの最大の武器である賛美と礼拝を奪われていることになります。旧約聖書と新約聖書全体を統一した神様からのメッセージとして受け取るのが本当のクリスチャンです。偽教師は、旧約、新約のどちらかを偏重したり、別の書物を付け加えたり、あるいは聖書の特定の巻や部分だけを強調することによって、偽りの体系を作り上げて、これこそが真理だと主張するのです。救い主の掟とは、イエスキリストが私たちに与えておられる、神様を愛する事、隣人を自分自身のように愛する事を頂点とした、御自身が十字架の上で示された愛の掟です。これを思い出すために帰るところは聖書しかありません。テキストを読み、テキストについて語り合い、テキストを行うために私たちは罪の世から召し出されているといっても良いのです。主の掟を忘れないように、簡単な事から始めましょう。まず、日曜日に頂いた聖書の言葉に、一週間じっくりと取り組むことから初めて下さい。読んで、語り合って、行うのです。ユアチャーチでは聖日礼拝以外の聖書の個所を教える聖書研究会のような集会を行いません。いろいろなところから出ているデボーションブックを使う事もお勧めしません。なぜなら、大抵の人にとっては一つ一つはどれもが素晴らしい聖書の言葉も、いっぺんに沢山食べれば消化不良になってしまうからです
1) やがて滅びる世界にノアのように生きる (3-6)
まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。(3-6)
忘れてもいい事を忘れることができるのは、感謝な事です。何でもおぼえていたら頭は爆発してしまいます。ユアチャーチも年齢の幅が広がって物忘れを心配する人が増えてきましたが、あまり気にせず、それほど多くはない、忘れてはいけないことをおぼえていればよいのです。ここで人類共通の記憶しておくべきこととして紹介されているのは、創世記に記されているノアの洪水です。洪水物語は聖書以外にも古い書物に記憶されている出来事ですが、聖書はそれが起きた理由をもはっきりと記しています。それは神様に聞き従わず、罪に満たされた世界を滅ぼすためにおきました。そのことを聖書は記憶に留めておくように勧めています。それは、終わりの日が逆らい続けている人の上には、大きな災いとして起こるからです。イエス様御自身の言葉としても記されていますが、その日は来るのです。しかし、主に従って歩んでいる人にとって、それは災いの日ではありません。新しい天地が始まる日なのです。ちょうどノアが箱船を作っていた時に、周りの人々が、そんなことは、起こりはしないとノアを罵ったように、終わりの日に備えて正しく生きなさいと勧めても、無視するばかりかあなたの歩みを馬鹿にしてあざ笑う人がいるのです。この国では多くの人が信じない神様を信じて、神様の意思に従って正しく生きようとしている人はちょうど創世記のノアのような者です。いつかは分からない、次の瞬間かも、何世代も先のことかも分かりませんが、あなたが日々神様の正義と愛を行う人として歩んでいるなら、ノアのように新しい世界に船出することができます。
しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。 (7)
聖書を読む上で、典型的なお勧めでない読み方は、この7節のような部分の本質を見落として「火で滅ぼされるって、どんな火だろうと言う考察に興味を持って時間と労力を浪費するような読み方です。火が何を意味するのか特定することはできないし、追求する事は意味が無いか、むしろ有害な読み方だと、私は警告しておきたいと思います。そんな読み方で、想像を働かせて終末の様子や天国の様子を預言と称して、夢を見たとして、文章や映像にしたものがキリスト教書店にもならんでいますが、それらは、一般書店のオカルト・ニューエイジコーナーの方がふさわしい、つまり私達が読むべきものではありません。新しい天地を期待して生きるとは、そういうことではありません。ペトロが伝えたかったのは、「世界が永遠に続くと思ってはいけない。神様の時は確実にやってくるのだから、日々悔いの残らないように、どんな状況におかれていたとしても、教えられた愛と正義に生きよう」ということです。
メッセージのポイント
私たちは感覚的に永遠に明日があると思い込んでいますが、この世界の歴史の最後に、もう明日のない日が来ることを聖書は教えています。神様の意思に従って、救いの計画は進められていますが、それは永遠に続くわけではありません。救われるべきすべての人が救われたとき、かつて洪水で世界を滅ぼした神様がこの世界を終わりにする日が来るのです。私たちが求められていることは、それがいつだろうかと詮索することでも、この世界を見捨てることでもありません。求められているのは、神様の意思に従って正しく歩むこと、神様を信頼して歩むことです。あなたがそのような歩みを誠実にしてゆくことを見て、あなたの周りにいる人々も、あなたと同じ歩み方を始めます。
話し合いのためのヒント
1) ペトロはなぜこの手紙を書かなければならなかったのでしょう?
2) 終末を意識した生き方とはどのような生き方ですか?