May 31st,, - June 6th, 2009 Vol.16 No.22
ペンテコステ記念礼拝メッセージノート (使徒言行録2章)
聖霊に満たされるということ
私達は先月イースターをお祝いしましたが、今日はイースターから何日目か知っていますか?ヒントは今日がペンテコステと名付けられた日曜日であることです。答は50日目です。ペンテコステとは50日目の祭りという意味で、イエス様の十字架と復活の出来事はユダヤ教で最も重要とされていた過越祭りから50日目の祭りということです。イエス様がよみがえられて天に帰られる時、弟子達はこの日を待っていなさいと命じられていました。彼らに十字架のゆるしは既にありました。主が生きておられるという喜びもありました。しかし、主の教会を始めるためにはもう一つのことが必要だったのです。それが聖霊に満たされるということでした。
A その時、何が起きたのか?
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(1-13)
ルカは説明を付け加える必要がないほど起きた出来事を客観的に表現しています。耳に聞こえ目に見えるかたちで聖霊が下り、ガリラヤの人々が様々な異国の言葉で神様の偉大な業について語ったので、人々は驚き、戸惑い、酔っぱらっているのだとあざける者もいたというのです。このような出来事がここで起こることを皆さんは歓迎しますか?私は人為的にそんな雰囲気を作り出すことには賛成できませんが、神様が起こされるのだとしたら大歓迎です。また私は、全く同じ出来事が起こらなくても、クリスチャンは聖霊を受ける、聖霊に満たされることができると思います。旧約聖書においても、福音書のイエス様の言葉からも、この使徒言行録や手紙の中でも繰り返し聖霊に満たされることを勧められているからです。ところが聖霊に満たされるといっても、一人一人の体験は異なります。ここで起きたような客観的な事実がなければ、それは感覚的なものなので、錯覚や思い込みなのではと疑いたくなることもあります。しかし、そのような現象がなくても、その体験が何か神様の偉大さを表わすことをもたらしたことが分かるなら、それが聖霊の満たしであったことがわかるのです。逆に言えばどんなに不思議なことを目にしたとしても、それが神様の偉大さを表わすような結果をもたらさず、かえって混乱や問題をもたらすなら、それは聖霊の働きではないと判断することができます。
しかし、この日ここで起きたことは明らかに聖霊の満たしによる出来事でした。数十人に不思議なことが起こっただけではなく、3000人の人がイエス様を救い主と信じたのです。 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。(ヨエル3:1-5)』
ペトロは、不思議な出来事を見にきた人々に向かって、これがヨエル書に預言されていた霊的な出来事であることを説明し、続いてイエス様こそ救い主であると宣言したのです。
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。(詩編16:8-11)』 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
人々はペトロのメッセージを聞いているうちに、聖霊の働きによって心を動かされて主に従う者になろうと決心をしました。 聖霊はペトロが語る時だけではなく、私たちが語る時にも働かれます。毎年主を信じて従う人が起こされていることがその証拠です。ユアチャーチはその意味で聖霊の満たしを受けているといえますが、私はもっと積極的に日々仲間が加えられるようにもっともっと満たされたいと思うのです。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
ここでルカが記していることは、人々が主を信じただけではなく、一つに組織されたということです。そこで、わたしたちはこの日をキリスト教会の誕生日だと考えています。この教会には建物もなければ、制度もなく、楽器もワーシップバンドもありませんでした。しかしこの日誕生した教会は、教会の持つべき十分な要素を備えていました。使徒による教えがなされ、交わりがあり、熱心な祈りがありました。ひたすら心を一つにして礼拝がささげられるとともに、家々でミニチャーチ(とは呼ばれていませんでしたが)が開かれ、その社会の中でも良いものだなと思われていたのです。私たちはそれ以外のことが足りないことを嘆く必要はないのです。
ここに、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。と書かれていますが、聖書が共産主義を推薦していると考える必要はありません。聖書は資本論よりも共産党宣言よりもずっと昔に記されているのです。むしろ共産主義は、ここで聖書の教えている理想を不完全に表面的に模倣したものだといえます。それは旧約の民が神様の教えを形式的に守ることに満足してしまったように、律法主義でしかありません。ユートピアを目指して制度を強制してもうまくいかないことは歴史が証明しました。私たちのできることは、おかれている社会の仕組みがどうであっても、イエス様のように愛するということです。すべてのものは神様のものです。神様は、それをあなたが必要な時に用いることができるようにあなたに預けておられます。だから、神様が誰かの、あるいは何かの必要のために用いなさいと命じられるなら、惜しまずに差し出す。それで良いのです。
B 私たちは何を求めるのか?
神様を信頼して歩む上で、聖霊に満たされることは欠かせません。イエス様は天にお帰りになられる前に、エルサレムを離れず父の約束を待ちなさい、と弟子たちに命じられました。そこで、彼らは自分の意志や力や知恵を頼ってすぐに教会を始めることをせず、イエス様の命令に従って、聖霊の満たしを待ったのです。私は皆さんにも聖霊に豊かに満たされていただきたいと思います。しかし、それは預言や異言や癒しといった現象が起こるということが目的ではありません。それが、良い実を結ぶなら、現象はあってもなくてもどちらでもよいことです。現象を求めるのは良いことですが、それが目的となってしまえば、コリントの教会のように愛という本来の目的を失ってしまい、神様を悲しませることになってしまいます。私たちは、愛の実を豊かに実らせるために、聖霊に満たされることを求めましょう。
聖霊に満たされていると思うなら、その体験や感情ではなく、実生活に現われる実を追求する方が健康です。神様が私たちに求めておられることは、ペンテコステに誕生した教会が持っていた教会の「必要十分条件」なのです。もう一度42-47節に注目しましょう。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
私たちはユアチャーチという目に見えるキリストの体の一部として、正しい教えがなされること、主にある交わりがあること、聖餐式が正しく行われること、愛が実に見えるかたちで現されていること、心からの礼拝がささげられていること、コミュニティーに貢献していることについて責任を負っているのです。
メッセージのポイント
ペンテコステは教会の誕生日として世界中の教会で憶えられている日です。しかしその受け止め方は、それぞれの教会によって様々です。ユアチャーチは、聖霊に満たされる事が頭の中の概念ではなく、信じる者一人一人が体験できる事柄だと信じています。また感情的な高揚感や、感覚的な経験であるだけではなく、私たちの生活を主の意志に適ったものへと大きく変えることのできる力を発揮するものだと信じています。ですからユアチャーチでは、誰でも聖霊に満たされる事、満たされた者にふさわしい歩みをすることを勧められます。
話し合いのためのヒント
1) なぜ聖霊に満たされることを求める事が大切なのですか?
2) 聖霊に満たしは私たちに何をもたらしますか?