June 14th, - June 20th, 2009 Vol.16 No.24

シリーズ:ペトロに学ぶ喜びに満たされて生きる方法20 (IIペトロ3:14-18)

成長しよう!

だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。(14) また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。(15) 彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。 (16) それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。(17) わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。(18)

ペトロはこの手紙の締めくくりに、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい、と勧めています。それは霊的な成長、魂の成長です。体の成長と同様に、魂の成長も自分や身近な人には、わかりにくいものです。皆さんは自分の霊的成長を自覚していますか? ペトロは二つの面で成長することを願ってこの手紙を終えました。恵みにおいて、知識においてという二つの面です。それでは始めに、恵みにおいて成長するということについて考えてみましょう。

A 救い主イエス・キリストの恵みにおいて成長しよう

1) 新しい世の希望を持ちながら神様に喜ばれことによって (14)

だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。(14)

「このこと」と言うのは先週お話しした、神様に従って歩む者には終わりの時にも、新しい天地に移される希望があるということです。ですから、これからも神様に従って歩み続けなさいと勧められています。「きずや汚れが何一つなく」とは完璧を目指しなさいということではありません。2章13節の「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。」の「不義を行う者」のようではなく、と言っているのです。口でどんなにありがたい教えがなされていても、そこに平和がなければ神様の教会、キリストの体とはいえません。しかし、私達はこの恵みの約束があるので、終わりの日まで神様の愛と義に適う者に少しでも近づけるように励み続けることができます。そのことが私達に霊的な成長をもたらすのです。

2) 主の忍耐に感謝して生きることによって (15)

また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。(15)

もう一つの恵みは神様の忍耐です。パウロとペトロの共通の認識は、神様が忍耐深い方なので私達は救われるということです。どんなに頑張っても、失敗を繰り返してしまう私達です。傷つけまいと思っていても傷つけあってしまう私達です。神様を喜ばせたいと思っていても、悲しませてしまう私達です。しかし、神様は私達の誰よりも忍耐強いお方です。こんなに深い恵みが他のどこにあるでしょうか?私達に7の70倍許しなさいと教えられた神様は、私達に対してそれ以上の忍耐を持ってつきあって下さるのです。失敗しても良いのです。しかしあきらめてはいけません。あきらめたとき成長は止まってしまいます。大切なのは、成長のスピードでも、どこまで到達できたかでもありません。成長し続ける事が大切なのです。

B 救い主イエス・キリストの知識において成長しよう

1) 聖書を正しく学ぶことによって (16)

それでは次に知識において成長することについて考えてゆきましょう。それは第一に聖書を正しく学ぶということで可能になる事です。

彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。 (16)

聖書には理解しにくい個所が多くありますが、ここでは特に、パウロの手紙が曲解されていることが問題とされています。先週お話ししましたように当時問題となっていたのは、イエス様が再び来られる事などない、という曲解でした。それは少なからぬ人々に悪影響を与えたのでペトロはこの手紙を書いたのです。  私達もまた、聖書を正しく読むという事に心を向けなければ、彼らと同じ過ちを起こしてしまいます。むしろ私たちの方が誤解する恐れは大きいのです。なぜなら今私達は言語と時間と文化が大きく異なるところで読んでいるからです。言語を各国語に訳す時点で様々な翻訳が可能なのです。それでも教会は2000年の間、異端とは一線を画す基本的一致が保たれてきました。大きな分裂(東西の分裂、プロテスタント教会の誕生など)を経験しましたが、それでもこの点は共有しているのです。それは、神様が父、御子、御霊として御自身を現された事、御子は神様でありながら本当に人となられ十字架にかかられ死んで葬られ復活されたこと、主が再び来られる事、イエスキリストを主と信じる信仰のみが神様との和解と永遠の命を与えること、教会はキリストの体としてこの世に存在する事、です。これらのことを前提として聖書を読むこと、またコンテキストを無視しないで読む事が、聖書を神様の言葉として正しく読む方法です。それは神様についての正しい知識をもたらし、私たちの霊を成長させてくれます。

2) 不道徳な者の誘惑を退けることによって (17)

最後に誘惑を退ける知識についてお話しします。

それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。(17)

聖書の曲解は、その人を不道徳に誘います。どんな曲解も、それは要するに自分勝手な解釈、自分が正しいという考えですから、そうなればもうブレーキが効かなくなってしまいます。自分の思いを神様の思いとするので、聖霊の警告にも耳を貸せなくなってしまうのです。わたしたちには、そのような者たちに唆される恐れがあるというのです。偽教師は始めから偽教師だったわけではありません。正しく聖書を学んだはずの教師だったのです。しかし自分の欲望に負け、自分勝手な解釈に陥り偽教師になってしまいました。彼らの持っていた堅固な足場は崩れ去ってしまったのです。私達より学識や経験が豊富な人が、偽教師として耳ざわりの良い話で私達を唆すとき、私達が頼ることができるのはイエス様の知識なのです。イエス様は物事を、それが結ぶ実で判断されました。木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。(マタイ12:33) 実を見る事はそれほど難しい事ではありませんがそれは、富という実でも力という実でも名声という実でもなく愛という実である事を憶えておきましょう。

メッセージのポイント
成長しなさい!神様が、例外なく私たち一人一人に望んでおられることです。この社会での歩みは、楽しい時ばかりではありませんが、あなたが主とともに歩むなら、正しい目的地に向かっていることは主が保証して下さいます。人生の歩みは成長の歩みでもあります。私たちは、「誰かの成長が遅い」と裁き、「自分の成長が遅い」と自己嫌悪に陥りますが、神様は忍耐強く導いて下さる方です。成長のスピードを余り気にすることなく、ゆっくりでも、少しずつでも歩み続けることが大切です。聖書の教えに忠実に、誘惑を避けながら、互いに仕えあって成長してゆきましょう。

話し合いのためのヒント
1) 聖書の教えを正しく身に付けるために必要なことは何ですか?
2) 霊的な成長とはどのようなことを指しているのですか?