June 28th, - July 4th, 2009 Vol.16 No.26

シリーズ:ヨハネの手紙

イエス様が歩まれたように歩む (Iヨハネ2:1-6)

A 私たちを裁く神様の法廷

1) 弁護士としてのイエス様 (1,2)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。(1) この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(2)

先週マーティンがこの手紙の最初の章についてメッセージしてくれました。マーティンがメッセージの中で一つだけ紹介してくれたギリシャ語を覚えていますか?「コイノニア」(交わり)という言葉でした。この手紙が書かれた目的をヨハネは、いくつか別の角度から表現しています。先週マーティンは一章から二つの表現が紹介されていました。まず3節では、読み手がこの「コイノニア」を持つために書いているというのです。

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしとたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(1:3)

「交わり」は教会以外ではあまり使わない言葉です。現代社会では価値のないことだと思われているからかも知れません。しかし、人間は交わりなしに生きる事はできないのです。それも、神様とイエス様の交わりの中での互いの交わりでなければなりません。なぜ神様を中心としたコイノニアでなければいけないのか?それは4節のもう一つの表現で分かる事です。

わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(1:4)

ここでは、ヨハネは私達の心を喜びで満ちあふれさせたいと願いこの手紙を書いたといっています。私達の心を変わることのない喜びで満たすことのできるのは、御父と御子のコイノニア以外にはないからです。 今日のテキストでは、この手紙が書かれた理由について全く違う表現がなされています。 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。 しかしよく考えてみると、このことも一章の二つの表現と緊密につながっている事です。罪は私達を交わりから遠ざけ、心の喜びを奪うものだからです。 私達は誰でも心を喜びで満たしたいと願っています。また良い交わりを求めます。それらが実現していないなら罪が邪魔しているのです。聖書で言うところの罪とは具体的な行為を指しているというよりはむしろ、そのような行為を行なってしまう心の状態を指しています。心が神様から断絶した状態、本来、創って頂いた神様にしっかりとつながっていない状態です。罪と訳されている言葉の言語の意味は「的外れ」、矢が的から外れている、というものです。的外れな人生なら喜びで満たされるはずがありません。 この私達の的外れな状態=罪の問題を解決するために神様は御子イエスキリストをこの世界に送って下さったのです。私達はイエス様を数々のふさわしい称号でお呼びしています。救い主、癒し主、神の子、そしてここでは弁護者と呼んでいます。原語の意味は「法廷に呼び出されて被告の弁護をする者」です。神様は私達の罪を決して見逃さずに裁こうとなさる一方で、最優秀な弁護士イエス様をその法廷に呼び出され、わたしたちのために弁護するようにしてくださいました。この方を信頼して従うなら、あなたの罪は赦されます。イエス様御自身が全世界の罪を十字架で償って下さった方だからです。それでは罪赦された者としてクリスチャンはどう歩んでゆくべきなのでしょうか?それは赦されているから何をしてもいいというものでも、神様の前に正しい者とされた以上完璧に生きなければいけないという者でもありません。そうではなく次の部分にある『神の掟』を守って生きなさい、というのがその答えです。

2) 神様の掟 (3,4)

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 (3) 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。(4)

神の掟を守るためにはまずそれがどのようなものであるかを知っていなければなりません。それを知る事は守る事より難しいことではありません。それは、「愛の掟」です。この手紙の4章では「神は愛です」と宣言しています。ですから、神の掟は愛の掟です。それは、イエス様が愛されたように見返りを求めずに愛する事、互いに愛し合う事、神様の愛をまだ味わっていない人に伝える事です。

B 神様の内にいるとは?

1) 神様の言葉を守ること (5)

しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。(5)

この掟を守って歩む事は、知っている事よりもはるかに難しい事です。失敗もします。何度も失敗する自分に失望もします。でも完璧にやり遂げる事を求められているのではないのです。あきらめずに、イエス様についてゆく事、いつもイエス様と一緒にいる事が大切なことです。また、そうしている事がここで書かれている、神の内にいるということなのです。

2) イエス様のように歩む事 (6)

神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(6)

神様の内にいるとはただ神様を悲しませることをしないというだけではなく、神様を喜び楽しませるという行動として表れるような積極的なことでもあるのです。イエス様が、すべての人の罪を償ういけにえとなって下さったので、すべての人は罪から自由になることができるのです。しかし「最高の自由とは罪からの自由」であるという真理を認める人はそう多くはありません。「私は神様を知っている、私はクリスチャンです」と口で言っている人の中でも、イエス様のように歩んでいない人は沢山います。神様の言葉に従って日々を生きること、イエス様が歩まれたように歩むことを意識しましょう。幸いなことに私達はこの道を一人寂しく歩いているのではありません。イエス様と多くの友と一緒に助け合い、慰め合い、励まし合いながら歩んでいるのです。

メッセージのポイント
人を傷付け、悲しませ、争いや苦しみを生み出すのは罪です。イエス様は、すべての人の罪を償ういけにえとなって下さったので、人類は罪から自由になることができるのです。しかし「最高の自由とは罪からの自由」であるという真理を認める人はそう多くはありません。「私は神様を知っている、私はクリスチャンです」と口で言っている人の中でも、イエス様のように歩んでいない人は沢山います。神様の言葉に従って日々を生きること、イエス様が歩まれたように歩むことを意識しましょう。幸いなことに私達はこの道を一人寂しく歩いているのではありません。イエス様と多くの友と一緒に助け合い、慰め合い、励まし合いながら歩んでいるのです。

話し合いのためのヒント
1) 神様の掟とは何ですか?
2) 神様の内にいるとはどういうことでしょうか?