July 5th, - 11th, 2009 Vol.16 No.27

シリーズ:ヨハネの手紙 III

新しい掟 (Iヨハネ2:7-17)

A イエス様の掟を守って生きてゆこう

1) イエス様の掟 (7,8)

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。(7,8)

ここで取り上げられている掟とは『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』 (ヨハネによる福音書13:34,15:12) という、イエス様御自身が与えて下さった掟です。それは受難週の木曜日、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗い終えたあと、あなたがたも互いに足を洗い合いなさいと命じられ、ユダが裏切るために出て行った直後に語られたものです。こののち教会は十字架と復活の時を経て、イエス様を実際には見ることのできない状況のなかで、もう一人の弁護者、聖霊の力を受けて誕生しました。教会は、自らがこの掟を守りながら、この掟が支配する領域、すなわち神の国を拡げてゆくために今も働いているのです。  この手紙が書かれたのは、二代目三代目のクリスチャンの時代です。ヨハネがもう一度、この掟について書かなければならなかったのは、この掟が忘れられていたからです。最も大切な掟なのに、耳新しい教えに聞こえてしまうほどに、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』 という掟は実質的に守られてはいなかったのでしょう。  この掟は私たちにとっても、いつも自分がそれに従って生きているか自問しなければいけない「古くて新しい教え」です。 イエス様が愛して下さったように互いに愛し合いなさい。もしあなたが、いままでイエス様の愛を知らなければ、ぜひイエス様のあなたに対する愛を知っていただきたいのです。今日お帰りになる前に、ここにいるクリスチャンにぜひ聞いてください。それから、一緒に聖書を読み始めましょう。掟というと窮屈に感じるかもしれませんが、それは誤解です。キリストの掟は、あなたを縛るものではなく、あなたを自由にするものです。愛し合っていると言いながら実は憎み合い、傷つけ合う生活を、本当に愛し合う生活に変えたいと願うなら、ただ一つの道はイエスキリストに従うことです。

2) イエス様を主と信じる人のしるし (9-11)

「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。(9-11)

なぜこの愛の掟を基礎に築かれた教会が、基礎を忘れてしまったのでしょうか?兄弟というのはここでは教会の仲間のことです。教会の中に「光の中にいる」と言いながら兄弟を憎む者が存在しました。実際にイエス様とともに歩んでいないなら、イエス様が愛されたように互いに愛し合っていないのなら、いくら私はクリスチャンと叫んでも、神様の光の中を歩んでいるとはいえません。イエス様が愛されたように互いに愛し合っている、それが健康なキリストの体のしるしです。教会が100年もたたないうちに、初めの愛を忘れてしまうということが起こり始めたのなら、2000年後の教会はどうして正しく歩むことができるのでしょうか?困難さはさらに増しているのではないでしょうか?闇はもっと近くに迫っていて、私達の目を見えにくくしているのではないでしょうか?確かにそうかもしれませんが、イエス様は決して御自身の体である教会をお見捨てにはなりません。目に見える組織として、赦された罪人の集まりとして、教会は歴史上にたくさんの汚点を残してきましたが、神様は愛と力を与えられた人々を起こし、教会の健康を取り戻してきたのです。

B 大丈夫!あなたも愛に生きられる

1) キリストの体の強さ (12-14)

教会の健康は、あなたの霊的な健康と密接な関係があります。あなたが健康でなければ教会は健康であるとは言えないし、不健康な教会はそれを変えようとしなければそこにつながる一人一人も健康ではいられないのです。もっと健康になりたいと思いませんか?そこでヨハネの励ましの言葉を聞きたいと思います。

子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。(12-14)

ヨハネは、子たちよ、父たちよ、若者たちよと言葉を変えて呼びかけています。この時代の教会には既に、何十年もの間信仰を保ち忠実に主の体に仕えてきた人々(父たち)、彼らから信仰を継承してすでに多くの働きを担っている人々(若者たち)、そして信仰を持って間もない人々(子たち)がバランス良く存在していたのです。ここで私達が確認できることは、1)イエスの名によって私達の罪が赦されている、2)私達はイエスキリストを初めから存在する方として知っている、3)私達は強く、悪い者に打ち勝った、4)私達は御父を知っている、5)神様の言葉が私達の内にいつもある、ということです。教会の強さはここにあります。そしてあなたがその一部であるなら、その強さはあなたのものでもあるのです。もっと健康に、強くなりたいなら、これらのことを魂に刻み付けることです。

2) 「世を愛さず、神様を愛する」の真意 (15-17)

私達がこの強さを保つために、このテキストの最後の部分でヨハネは大切な忠告をしています。15-17節を読みましょう。

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(15-17)

ここで言われている世とは、神様から背を向け罪にとらわれた人々の社会や、そこに存在する物事ではありません。そのような意味でなら神様は世を愛されています(ヨハネ3:16, Iヨハネ2:2)。ここで言う世とは、この社会を支配している罪の力とその現れとしての自分勝手な欲望に身を任せることが良いことだという考え方です。それは、神様を愛すること同時にはできないことなのです。精神的なものであれ、肉体的なものであれ欲望を満たすことや、生活を素晴らしい物事で満たそうという思いを、人生の目的としてはいけないのです。それは神様から出てくるものではなく、またやがて過ぎ去ってしまうものだからです。私達の人生の目的は神様の栄光を現すことです。食べることや着ること何かを所有すること趣味を楽しむことは、あなたを神の人として輝かす邪魔をするものではありません。楽しんでよいのです。でも、神様の御心を行なうことよりも優先するなら、永遠の喜びに生き続けることはできません。

メッセージのポイント
ヨハネは、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』 (ヨハネによる福音書13:34,15:12) という、イエス様が私たちに下さった掟に生きる重要性をもう一度、読み手の心に新たに焼き付けようと、この部分を書いています。この思いが薄れるとき、私たちはイエス様が与えて下さった、愛に生きる道から遠ざかってしまうからです。この掟は単純ですが、守ることがとても難しく思えます。自分は生涯、光の子として生きられるだろうか?そんな心配が心をよぎります。でも、大丈夫、私たちは神様を知っている者、罪の赦しを知っている者、イエス様とともに勝利した者だからです。一人一人は弱くてもイエスキリストの体は強いのです。この目に見えるキリストの体(教会)に生きた枝としてつながっているなら、自分の欲望を愛さず、神様を愛する者として、光の中を歩み続けられます。

話し合いのためのヒント
1) それはどのような掟ですか?
2) 聖書に書かれている「世」にはどのような意味がありますか?