July 12th, - 18th, 2009 Vol.16 No.28

シリーズ:ヨハネの手紙 (4)

イエス様のうちにとどまりなさい (Iヨハネ2:18-27)

 

A 反キリストの現われる時

1) それはイエス様の昇天から世の終わりに至る時 (18)

子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。(18)

今の時代になっても、これからどこかに反キリストが現われて、世界は大変なことになるといったような預言めいた事をいう人が後を絶ちませんが、皆さんはどうかそのような偽預言者の言う事に惑わされないで下さい。ここに書かれているように、反キリストは、既にこの手紙の時代に多く現われていました。終わりの時は、これから来るのではなく、もう既に来ているのです。それが聖書の教えている終末の正しい見方です。「反キリスト」は、聖書の中でも今日取り上げている二か所、4章に一か所、そして第二の手紙に一か所だけにある言葉です。それは、今までもこれからも、終わりの日が来るまで現れては消えてゆく者です。それに対してキリストの体である教会は、いくつかの大きな試練と、数えきれないほどのそれほどでもない問題を乗り越えて続いています。この終わりの時は、教会の時代と言っても良いのです。「反キリスト」はいつの時代にも現れる珍しくもない存在です。「反キリスト」について、聖書が伝えている以上の情報を得ようとする事は、時間と労力の無駄です。私達はその時間と労力を、主を愛する事、互いに愛し合う事、隣人を愛する事に費やすべきです。それは無駄であるばかりか、私達を福音そのものから引き離す危険も持っています。

 

2) 彼らは私達から去っていった者だった (19)

彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。(19)  

この言葉を聖書の著者の中で唯一使っているヨハネは、私達が知るべき「反キリスト」の情報として、簡潔にこう記しました。つまり、反キリストとは他の宗教や思想、主義主張によってクリスチャンを迫害する者のことではなく、聖書の神様を信じていると言いながら、聖書を曲解し、父、御子、聖霊の三位一体の神様を否定して、自分たちの教えを宣伝している人々のことです。今の時代でいえばエホバの証人や、モルモン教などがそれにあたります。教会はキリストの体であると同時に、赦された罪人の集まりでもあります。そこには間違った解釈や、自分勝手な信仰の理解が生まれる可能性はいつもあるのです。 私達がそのような者に惑わされる事なく、イエス様だけを見上げて歩んでゆくために大切なことを後半で考えてゆきましょう。

 

B 反キリストに惑わされないために

1) 偽りと真理を見分ける(20-25)

しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。(20-25)

油とは聖霊の事です。信じる者に注がれている聖霊は、物質ではなく霊的、人格的存在ですから、注がれれば私達の頭を濡らすのではありません。私達の魂を満たしてくれます。この聖霊の注ぎが、私達が真理から離れてしまわないために重要である事をヨハネは教えてくれています。聖霊は、私達にイエス様が神の子、救い主だと確信を与えて下さる霊で、ヨハネは聖霊を真理の霊とも呼んでいます(4:6)。イエス様も御自身を「道であり、真理であり、命です」と証ししています。 イエス様をキリストと認めない事は,どんな言い方をしても、実は神様を神様として認めていない、自分勝手な自分の想像上の神様を拝んでいることになるのです。それを私達が知ることができたのは聖霊の働きによるのです。私達は、この確信から逸れないように、「聖霊よ、どうぞわたしの内側に満ちていて下さい」祈り続けてゆきましょう。  24節の、「初めから聞いていたこと」とは聖書の根本的なメッセージ、イエスキリストの十字架による罪の赦しです。罪とは、あなたの神様に背を向けていた生き方そのものです。生き方が変わらなければ、人々を苦しめ傷つけ悲しませ、自分を苦しめ傷つけ悲しませ、神様を悲しませる結果を繰り返すしかありません。神様は私達が罪から自由になれるたった一つの道を用意してくださいました。イエス様ご自身です。彼は私達がとどまるべき神様と私達を結ぶ唯一の道、永遠の命、真理です。

 

2) 御子のうちにとどまる (26-27)

以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。(26,27)

神様が私達に注目しなさいと求められているのは、「反キリスト」ではありません。彼らに惑わされないように気を付けなければなりませんが、彼らについての知識が私たちにとって重要なことではないのです。最も大切なことは、注がれた聖霊によって得られる霊的な理解力によって聖書を読み、祈り、正しい人々から得ることのできる知恵です。あなたの人生に不可欠な、永遠に神様とともに歩むための知恵です。 私たちの周りには情報が溢れています。例えば『反キリスト』に関連する事柄をインターネットで検索すれば簡単には読み切れないほどの情報が目の前に現われます。これらすべてに目を通そうとすれば、祈る時間も、聖書を読む時間も少なくなってしまいます。ヨハネが誰からも教えを受ける必要がないと言っているのは、誰からも学ぶ必要はない、という傲慢な態度を取れということではありません。信仰の知識として福音とは異なる教えについて基本的な知識を持っている事はよいことです。けれども、バランスが大切です。聖霊の助けを受けながら聖書の言葉自体にいつも聞いていなければ、他から入ってくる事柄の正しいのか偽りなのかを判断できなくなってしまうからです。キリストの体の一部になっていない、聖書自体を十分に読んでいないという状態で、どんなにいろいろな知識を得たとしても、混乱するだけで健康な信仰を保つことはできないのです。 そこでヨハネは強く何度も、御子の内にとどまっていなさいと勧めているのです。信じました、バプテスマを受けました、クリスチャンになりました。それで完成ではありません。どうかイエスキリストのうちにとどまっていて下さい。それはキリストの体の一部であり続ける、教会につながっているということです。御子の内にとどまっていなければ、聖霊の油は切れてしまうからです。

メッセージのポイント
私達はヨハネの手紙の読者と同様、終わりの時を生きています。ヨハネはこのときに現われる「反キリスト」について、注意を促しています。反キリストとは他の宗教や思想、主義主張によってクリスチャンを迫害する者のことではありません。それは、聖書の神様を信じていると言いながら、聖書を曲解し、父、御子、聖霊の三位一体の神様を否定して、自分たちの教えを宣伝している人のことです。私たちにとって大切なことは、反キリストについていろいろ想像してみる事ではありません。誤った聖書理解が起こりやすい事を自覚し、そうならないために、イエス様を十字架にかかり復活された唯一の救い主、人となられた神と信じ、イエス様に従ってゆく信仰を保つ事です。

話し合いのためのヒント
1) 反キリストとは、どのような者たちでしょう?
2) 御子の内にとどまるとは、具体的にどうしていることだとおもいますか?