August 2nd, - 8th, 2009 Vol.16 No.31

神から生まれた人として(1ヨハネ 3:4-10)

A あなたは義人か罪人か?(4-7)

1) 罪を犯す者 (4)

罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。(4)

聖書は神様を信じようとしない者に、はっきりと「あなたは罪人です」と告げます。その人が、人から見て悪い人であろうと良い人であろうと関係ありません。法に背く人といっても日本の法律を破った犯罪者のことを指しているのでもありません。聖書のいう法とは人間の作った法律ではなく聖書を通して教えられている神様の掟です。それはイエスキリストの十字架に現された愛を原点とする「人の道」です。神様の法は、人間の法律よりも遥かに厳しいものです。神様の法を守らない人は、国の法で裁かれる事はありませんが、天の法廷では既に裁かれており、永遠に神様との断絶という、死刑以上に恐ろしい刑に服役しているのです。そしてすべての人は生まれながらにしてこの罪を犯していると聖書ははっきりと指摘しています。子供は無垢だ、子供には罪がないと思うのは誤解です。教えなくても、言葉を発する前から親を巧みにコントロールすることをしっかり覚えます。ことばを覚えれば今度は嘘をつくことを身につけます。一度叱られれば、マズいことは隠れてするものだと覚えるのです。そして人はそのまま大人になります。大人になれば争いの道具は素手から核兵器にまでエスカレートします。嘘にはますます磨きがかかり、より気の利いた言い訳を身につけ、マインドコントロールの手法で人を思い通りに動かそうとさえするようになるのです。イエスキリストは私たちをこの悲惨な状況から解放するために来られました。

2) 義を行なう者 (5-7)

あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。(5)  御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。(6)  子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。(7)

ヨハネはここで、イエス様が世に来られたのは「罪を除く」ためだと表現しています。私たちの罪が除かれれば、もう刑に服している必要はありません。罪から自由になれるということです。もう、人を踏み台にした自己実現の努力は必要なくなります。アダムとエヴァ以来の罪の呪いから解放されるのです。解放後の私たちに大切なのは、御子の内に「いつも」いることです。私たちの心は、いつの間にかイエス様の愛から迷い出してしまい、古い罪の行動原理で歩んでしまっていることがあるのです。だから「いつも」と言われているように、自分の心の立ち位置をときどき確認してみる必要があります。一旦クリスチャンになれば自動的に個々の罪をおかさなくなるということではありません。ここで罪を犯しませんと訳されている言葉は「罪を犯し続けません」という意味です。神様は、嘘をついてしまいました、人を傷つけてしまいましたという個々の罪の失敗であなたはもう「義を行なう人」失格ですとはおっしゃいません。「あなたはやっぱり罪を犯してしまうだめな者なのだから、神様に従おうなどという無理なことを望まずに思い通りにしなさい」というのは悪魔の囁きです。神様はあなたがそのような弱さを持ちながらも、積極的に義を行なうことを願っておられます。

B あなたは誰に属するか? (8-10)

罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。(8) 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。(9) 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。(10)

1) 悪魔に属する者

ここからは悪魔に属する者か、神様に属する者かと言う区別について述べていますが、前半の罪を犯す者と義を行なう者の区別を、「誰に属しているか」という別の側面からしているものです。誤解しないでほしいことは、悪魔に属するとは悪魔の性質を持っているとか、悪霊のような者だということではないということです。支配下にある者ということです。中には積極的に悪魔に魂を売り渡しているような人もいますが、多くの人は無意識のうちにその支配の下にあり、不自由を感じながらも、そこから脱出したいとは思っていません。私たちも人生のある時点まではそうだったのです。しかし、今から思えば神様の恵みによって、このままでいいはずはないと思えるようになったのです。そして同じ神様の恵みで、イエス様という罪からの脱出の道を見つけることができました。イエス様とその仲間の救出作戦によって、悪魔の所属を脱して神様に属する者になれたのです。ヨハネはここでは、イエス様の来られた理由を「悪魔の働きを滅ぼすため」と5節の「罪を取り除くため」にもう一つの表現を加えました。この両方の表現によって、私たちの罪の問題が、単に私たちの弱さやだらしなさにあるだけではなく、それにつけ込む悪魔の働きかけにも影響されているということを教えてくれています。問題を全て自分の弱さにしてしまうことも、全て悪魔のせいにしてしまうことも誤りです。自分の弱さに対しても、悪魔の働きに対しても大きな力を持って働いて下さるイエス様とともに戦ってゆきましょう。  信仰は、人の心に深くかかわるものです。多くの人は物質的な、肉体的な満足が魂の平安には、十分役立たないことを知っています。イエスキリストを主と信じる信仰は魂の健康を支えますが、聖書は決して魂を身体と切り離して考えることを教えているわけではありません。しかし、この時代のある人々は、信仰を持っても、なかなかコントロールすることの難しい身体についてもっと楽なアイディアを考え出しました。彼らは人々に、心配しなくても良い、魂さえ清められていれば肉体は何をしてもいいのだと教え、肉の欲を好きなように満たして良いと教え、彼ら自身が不道徳な行為を実践していました。イエス様は律法主義を非難されましたが、律法自体を否定されたわけではありません。神様の前に正しい者は、その生活にもその正しさは反映されているはずだと、ヨハネは言います。心が神様に向いていれば体はどうでもいい、と言う者に対して、そんなことはあり得ない、そのようなことを主張する者は正しい生活をしていない者であり、神様に属するものではない。つまり悪魔に属するものだと非難しているのです。口でどんなに神聖なこと、立派なことを言っていてもその人の日常生活が神様の愛を反映していないなら神様に属するものとはいえません。

2) 神様に属する者

一度は罪ある者として生まれた私たちが、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、イエスキリストに従ってゆく者とされた時、私たちは神様から生まれるのです。これが新しい命、永遠の命です。ヨハネは「神様の種」という面白い表現をしています。私たちの心には神様の種がまかれているというのです。この言葉については、「神様の言葉」「神様の霊」「神様の性質」と様々な解釈がありますが、どれも間違いではありません。ただ、種というぐらいですから、どんなに素晴らしいものであるかは想像できますが、私たちにとってはまだ育ってはいないもの、自分の徳性とはなっていないものなのです。それは大きく実を結び、花をさかせ、実を結ぶ楽しみがある、霊的な成長が期待できるということです。しかし、そんな小さな種であっても、神様が蒔かれたものなので、私たちを罪から守る力がすでにあるというのです。わたしたちに必要なことは、神様に対する信頼です。正しい生活、愛に生きる歩みは、自分の努力だけで達成できるものではないのです。道は一つしかありません。主イエスを信じなさい、そうすればあなたも、あなたの家族も救われます。

メッセージのポイント
最も大切なのは神様に属する者になるということです。しかしそれは。罪を犯さないようにするとか、霊感を鍛えるとか、サタンに騙されないようにするといった自分の努力で達成できるものではありません。その道はたった一つ、イエス様を主と信じ彼に従ってゆく事以外にはありません。それは生涯にわたっての歩み、『御子の内にいつもいる』ということです。

話し合いのためのヒント
1) 聖書の教える罪とはどのようなものですか?
2) どのような生き方が神様の子供たちと呼ばれるのにふさわしいのでしょうか?