August 16th, - 22nd, 2009 Vol.16 No.33
神の子イエス・キリストの名を信じる(シリーズ:ヨハネの手紙 8)(Iヨハネ3:19-24)
A 互いに愛し合っているなら (19-22)
これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(19,20)
何か問題に直面していなくても漠然とした不安を感じることがあります。人から責められているわけでもないのに、自分が悪い事をしているのではないか、失敗に向かって進んでいるのではないかと恐ろしくなることがあります。先週、とても後味の悪い夢を見ました。何年か前に大変良いチームワークで快適に働いていた人々がいるのですが、快適というのは全くの私の思い込みで、実は私が皆に迷惑をかけ足を引っ張っていたことを知らされる、という夢です。現実ではないことでさえ、わたしたちの心の平安を簡単に奪えます。ましてや具体的に良心の呵責があるなら、私たちの心は暴風雨の中の小舟のように揺さぶられてしまいます。海の深さは平均すると3800mだそうです。海の表面は気象の変化によって不安定です。また深さ数百メートルまでは流れがあります。しかしそれは深くても1000m位までなので、その下は安定しています。もちろん海の底は動きません。海底に近ければ近いほど静かだということです。真理に属しているということは、長い錨で海底につながっている船のような状態です。表面が荒れていても流されないので、安心していられるということです。心に責めを持つことは、神様が罪の性質を持つ私たちに良心を与えていて下さるのですからあって当然なのです。心の責めがある限り、平安は得られないというのは思い違いです。神様はあなたの全てをご存知のうえで、あなたを愛し受け入れて下さる方なのです。
愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。(21,22)
皆さんが神様に願うことは何でもかなえられますか?それはありませんね。祈りはどうですか?100%聞かれますか?皆さんありえないと思っていらっしゃると思いますが、実は神様は私の祈りを100%聞いて下さいます。その秘密をお教えしましょう。皆さんは、イエス様でさえ、その願いが神様に聞き入れられなかったことを知っていますか?受難週の木曜日、最後の晩餐を終えられた後、イエス様は、エルサレムの神殿の東側、オリーブ山の麓にあるゲッセマネの園で「十字架の苦難と死を取りのけて下さい」と願いましたが、その願いは神様に聞き入れられませんでした。しかしイエス様は、その言葉に続けて「しかし私の願いではなく、御心のままに行なって下さい」と祈っておられます。(ルカ22、マタイ26、マルコ14) イエス様は自分を十字架にかけるという神様の意思を知っていました、しかし同時に、痛みや、苦しみを受ける肉体を持った人としての恐怖を正直に神様に表現したのです。そして、それとともに「しかし私の願いではなく、御心のままに行なって下さい」と付け加えられたのです。これが100%聞かれる祈りの秘密です。何を願っても祈ってもよいのです。でも最後に口に出しても出さなくてもいいですから「しかし私の願いではなく、御心のままに行なって下さい」を加えて下さい。私たちは神様の内にいて日々成長しています。完全に「神の掟を守り、御心に適うことを行っている」という状態には最後の最後までなれないのですが、確実に近づいてゆけます。この地上においては、心の責めがあるということは、神様の下さった良心が麻痺していないということですから、まずは喜ぶべきことでさえあるのです。そこから私たちの霊的な成長は始まります。あなたの思いや願いは、成長にしたがって神様の思いに近づいてゆきます。
B イエス様を信じ、イエス様とともに歩む (23-24)
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。(23)
これまで数週間にわたって、互いに愛し合うことの重要さを学んできましたが、互いに愛し合うことができるのは、大切な前提があるということをもう一度心に留めておきましょう。今日のテキストではこの23節と前後の22,24節に神の掟という言葉が一回ずつ出てきます。日本語の聖書では区別がつかないのですが、原語ではこの23節だけが単数形なのです(NIVもそうなっています)。つまり、イエス様の名を信じることと、互いに愛し合うことは切り離すことのできない一つのことだということです。ここに、聖書の教えと、一般的な道徳との決定的な違いがあります。どのような宗教を信じる人であれ、宗教を否定する人であれ、人間はできるだけ仲良く暮らした方がよい、その努力をするべきだと考えます。しかし聖書はその全巻を通して、人間はそう願っていてもそうすることのできない弱く、罪深い存在であることを明らかにしています。イエスキリストを信じなければ神様とつながることはできません。このことを受け入れたくない人は、聖書は誰にでもためになることがたくさん書いてあるのに、なぜイエス様のことになると狭く排他的にイエスキリストを通して出なければ神様につながることはできないと主張するのかといぶかります。しかしそれが神様のお考えなのだと聖書はいうのです。イエス様こそが、この世の荒波にもまれる私たちが神様としっかりつながれるための唯一の錨だということです。この錨を下ろすのか、下さないのかはあなたの決断次第です。しかしイエス様によって神様につながることなしに「互いに愛し合いましょう」といっても、それは嵐の海の中で、自分すらコントロールできない小さな船が互いに相手を助けようとする、という絶望的に無力な試みでしかありません。助けようとして近づき、衝突して両方とも海に沈んだり、恐ろしくなって自分だけはなんとか助かろうと、いったんは救助のためにつなげたロープを切ったりすることになってしまうことが多いのです。あなたが愛し合う人となりたいなら、イエスキリストと錨によって神様としっかりとつながって下さい
神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。(24)
今日最後の節になりますが、聖霊について大変大切なことが記されています。イエスキリストを信じ、互いに愛し合う人は神様の内にとどまっている。また、それと同時に神様がその人の内にとどまって下さる。このことを実感していますか?それとも、それはどちらも実感することのできないことで、ただ聖書がそういっているから信じるしかないことだと思っているのでしょうか?ヨハネはここで「そうではない。分かる」と言っています。「神様が与えて下さった霊、つまり聖霊によって分かる」というのです。神様も、イエス様も五感で体験することはできません。しかし聖霊は私たちの感覚に働きかけてその存在を現される方です。聖霊の体験は聖書の中に、特に使徒言行録の中に豊富です。クリスチャンのなかには聖霊も父子と同様体験するものではない、使徒言行録はその時代だけの特殊な出来事として考えるべきだという人も多くいます。私は使徒言行録にあるような聖霊体験が今でも豊かに現れることを信じています。癒しや、不思議、預言や異言を自分でも体験しているからです。それで、自分の内に神様がとどまっていて下さることを分かっているのです。もちろん、このことは体験なので、それは思い込みや、偶然、錯覚に過ぎないという人がいても争うつもりはありません。しかしユアチャーチでは聖霊に満たされたり、癒しを受けたり、預言や異言などの霊的な賜物をもっと積極的に求めてゆきたいと願っています。聖霊による確信が、私たちをもっと互いに愛し合うことに向かわせてくれるからです
メッセージのポイント
互いに愛し合うということは、守るべき掟であるだけでなく、私達の心に素晴らしい影響を与えてくれます。全能の神様とともにいるという安心です。自分の思いや願いが神様の意思に添ったものになってゆきます。
互いに愛し合うことの第一歩は、イエスキリストを自分の主と認めることです。このことなしに互いに愛し合うことは不可能です。この第一歩を踏み出すことにより、私達はキリストの体の一部とされ、わたしたちの内には神様とキリストの霊である聖霊が宿られます。
話し合いのためのヒント
1) 互いに愛し合うことはあなた自身にどのような影響を与えますか?
2) なぜイエスキリストを主と信じることが、互いに愛し合うことの出発点なのですか?