September 13th,- 19th, 2009 Vol.16 No.37

イエス・キリスト=真実の神=永遠の命 1ヨハネ 5:13-21

A あなたが持っているものの中で一番大切なもの

1) 永遠の命を得ていることを思い出しなさい (13)

神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。

永遠の命とは肉体的に老いないとか死なないとかを意味しているわけではありません。永遠の命を得ているとは、神とともに生き続けることを意味しています。私たちの魂は肉体が滅びても無くなることはありません。だから神様とともにいることが大切なのです。そうでなければ、魂は肉体が滅びた先も永遠に神様からかけ離れた悲惨な状態を続けることになるからです。この世は若いことに価値があり、老いることを恐れますが、それは永遠の命の価値を知らないからです。永遠の命を持っているクリスチャンは、年を重ねることを恐れてはいけません。私たちが誇るべきことは肉体の若さではなく、心の若さ、神様に従って歩む柔軟性を失わないことです。

2) 永遠の命を持っていれば祈りが聞かれる(14,15)

クリスチャンでも、いただいた永遠の命の本当の価値を知らずに、この世の価値観に踊らされて、悩まないでよいことを悩み、本当に考えなければならないことを考えていない人が多いのです。ヨハネの時代も今と変わらなかったようです。そのようなクリスチャンは悩まなくてもよい悩みについて祈り求め、祈りが聞かれないと言って神様に文句を言いますが、全ての祈りが聞かれるとは聖書のどこにも書いてありません。14−15節を読んでみて下さい

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

どうしたら御心に適うことを願うことができるのでしょうか?それはひたすら神様の意思を探り求めることです。日常生活の営みに忙しいなら、この漢字のとおり、神様としっかりつながっている健康な心を失う事になります。私たちが礼拝することを生活の最優先にする理由はここにあります。週の始めの日の礼拝だけでなく、一日の始めに、終わりに、また折にふれて心を神様に向けるのです。形だけの礼拝では意味がありませんが、一日に何度か、神様の前に進み出るという意識において、クリスチャンはイスラム教徒を見習うべきです。ほんの少しの時間でも、日常の営みを離れて主の前に進み出るということ自体が、自分をささげものとして神様に差し出すことになります。それは神様が喜んで受けて下さる礼拝です。そこには祈りや賛美、黙想、聖書の言葉にふれるといったことが含まれます。心からの礼拝は一方通行にはなりません。礼拝を大切にささげ続ける人に心に、神様は語りかけて下さいます。礼拝を大切にすればするほど、神様の意思をよりよく知ることができるようになります。そして聖霊は、それを行なう力を与えて下さいます。

B 真実の神、イエス・キリストに仕え続けよう

1) 死に至る罪と,死に至らない罪 (16,17)

死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。

ここには私たちが積極的に願うべきことの一例が紹介されています。罪を犯している兄弟のために、その人が決定的に神様から離れてしまわないように、罪に気付いて神様に立ち返ることができるように願いなさいと勧められています。もしあなたのまわりにそのような人がいるなら、日々の祈りの中でその人の名前を出して神様にお願いしましょう。ところがここで、一つの難問が出てきます。死に至らない罪を犯している人々の場合には願うべきだけれども、死に至る罪を犯している人については、神に願うようにとは言いません。と言われていることです。願ってはいけないと禁止してはいないけれども、そのような人のためには願っても無駄です。というニュアンスです。二つのケースが考えられます。一つは、イエス様を主と信じ歩んでいたのに、信仰を捨て、イエス様は信じ従うべき神様ではないと主張する偽預言者、偽教師です。もう一つは、イエス様の働きを悪霊による働きであると言い張る人々で、そのことはヨハネを除く三つの福音書に記されています。(マタイ12:22-32,マルコ3:29,ルカ12:10) 

2) 悪い者の支配下にありながら、イエス様の内にいられる (18-21)

最後に、今私たちがおかれている状況の中で、どう生きるかということを、残りの部分から考えてみましょう

わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。 子たちよ、偶像を避けなさい。

第一に、イエスキリストとともに歩んでいる限り、私たちは決して悪によって滅ぼされることがないということがわかります。悪魔は、様々な様相で姿を現し、脅し、誘惑することが許されていますが、あなたに手を触れることはできないのです。実害を及ぼすことはできないということです。この社会においては、私たちを悩ます問題は次から次へとやってきます。イエス様を信じたら問題が無くなるのではありません。そうではなく、問題に打ち勝つ力が与えられるのです。そのような意味で人生は戦いです。神様の勝利は確定しています。しかし世界がまだ戦場であることも確かなのです。イエス様が来て下さり、私たちが何のために戦うのかを教えて下さいました。わたしたちは神様の愛と義が世に満ちるために戦っているのです。この手紙の最後が『偶像礼拝を避けなさい』という警告で締めくくられていることには大変大きな意味があります。私たちが、すでに確定している神様の勝利に与れなくなるという恐れがあるとしたら、それは偶像礼拝という行為から来るのです。偶像礼拝とは単に木や石で作られた偶像を形式的に拝むということではありません。神様以外の何かを、誰かを神様以上に大切にすることが偶像礼拝です。無意識のうちに自分の子供を偶像化してしまっている人がいます。子供が一家の王様と両親も祖父母も小さな王様に仕えているような光景を目にすることがあります。イエス様を心の王座に迎え入れたはずなのに、いつの間にか自分の仕事が、財産が、趣味がイエス様の席を不法占拠していることがあります。この偶像礼拝から自分を守る方法も、先にお話しした、御心をよりよく知る方法と同じです。礼拝です。あなたが頻繁に王座の前に進み出るならそこにイエス様がお一人で快適に座っておられるか確かめる事ができます。どうか、あなたの心の王座に他のものを登場させて、椅子とりゲームでイエス様にチャレンジしないよう気をつけて下さい。

メッセージのポイント
私たちはイエスキリストを唯一の救い主と信じ従う者になりました。イエス様は神様につながることにできる唯一の道であること、御自身が神であること、永遠の命であることを自ら証ししておられます。今も悪の支配の下にある世界の中で、正しく歩もうとするなら、既に得ている永遠の命を手放さないことです。それはつまり偶像を避ける,あなたのうちにある神様の座を他のものに明け渡さないということです。私たちはこの永遠の命をまだ得ていない者、手放して罪の中に戻って行こうとする者のために祈る事を勧められています。

話し合いのためのヒント
1) 永遠の命とは何ですか?
2) 死に至る罪とはどのようなものを指していますか?