October 11th,- 16th, 2009 Vol.16 No.41

愛が悩み悲しむ時 IIコリント1:12-2:4

A互いに誇りであるということ

1) クリスチャンの誇り (12)

わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。(12)

パウロはコリントの教会の人々から誤解されていました。彼のコリント教会に対する宣教やその後の指導が、神様から来る純真で誠実なものではなく、人間的な知恵、自分を満足させる動機によるものだと悪口を言う者がいたからです。パウロはここで、自分が良心に照らして、私心ではなくただ神様の導きに従って行動してきたことを知ってほしいと訴えています。そして、それこそが宣べ伝える者の誇りだといっています。イエス様を誰かに伝えること自分の務めであると考えている人にとって、この誇り以外の誇りは有害です。どれだけ多くの人に福音を伝えたか、どれだけ有名な人を導いたか、どれほど大きな、あるいはたくさんの教会を作ったか、どれほど困難な国で宣教しているか、私たちが誇りに思いたいことは沢山ありますが、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた。ということだけが私たちの誇りでなければなりません。もし私たちがこの誇りだけをしっかりと心に持っているなら、パウロがそうであったように無理解や中傷の中でも、しっかりと自分の務めを果たして歩んでゆくことができるのです。

 

2) 私はあなたの誇りとなりたい (13,14)

わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。(13,14)

神様の意思に従いたいという願いと彼らへの愛に基づいて、パウロはこれまでコリントの教会の人々と接してきました。どんなに彼らのために悩み苦しみ涙を流してきても、パウロにとってコリントの教会の人々を、自分の誇りというのです。ただ神様が誇りだ、と言うパウロが、コリントの人々を誇りだということに矛盾はありません。イエス様だけが誇りであるということの中に、イエス様の体の一部とされている人々を誇るということが含まれているからです。パウロも同じ体の一部です。パウロとコリントの関係が健全なら、コリントの教会の人々もまたパウロを誇りだと思えたはずです。しかし残念ながら、そうではなかったのです。彼らはパウロを誤解していました。誤解が生じたのは、意思の疎通がうまくいっていなかったからです。コミュニケーションに問題があったのです。ところで、コミュニケーションと聖餐式は「分かち合う」という意味の語源を共有しています。教会は聖いキリストの体であると同時に欠けを持った人間の集まりでもあります。喜びも悲しみも楽しみも苦難も分かち合える友は私たちの誇りです。しかしそれはその人が最初から持っていた素晴らしさではありません。その人を生かし、変えた神様の愛が素晴らしいのです。イエス様の十字架の愛こそがよいコミュニケーション、よい人間関係の土台です。十字架の愛は、自分自身を分け与えることなのです。しかし、どちらかが自分を惜しまずに与えようとしないならコミュニケーションは成り立ちません。その重要性は夫婦の関係において際立って重要です。夫婦円満の秘訣は豊かなコミュニケーションにあります。それは単にたくさんおしゃべりをすることではなく、何でも惜しみなく分け合うこと、喜びも、苦しみも楽しみも、悲しみも分け合うことです。与え合わなければコミュニケーションにはならないのです。それは容易なことではありません。イエス様が十字架で苦しまれたのと同様に、パウロはその生涯をかけて、時には、涙し、苦悩し、非難され、迫害されながら「それでも愛し続けましょう。私はあなたとともにいます」というイエス様の声に励まされながらその愛を貫き通しました。イエス様は私たちにも同じように呼びかけておられます。

 

B パウロの訪問計画変更の真相

1) 人々の誤解(15-24)

このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。(15) そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。(16) このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。(17) 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。(18) わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。(19) 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。(20) わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。(21) 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。(22) 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。(23) わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。(24)

パウロを中傷する人々は、彼を嘘つきだと主張していました。その理由の一つとして、彼が予告していた訪問の予定を変更して、まだ姿を見せないことをあげていました。それが自分たちの正しさの証明のように、パウロを自分たちのところに来ることのできない、偽り者、臆病者と喧伝していました。彼らがパウロを攻撃したのは、人々の心をパウロの伝えた十字架による和解の福音から引き離し、自分たちの教える人間的な知恵や知識による救い、という考え方に引き寄せたかったからでした。人々が一度信じた福音からそれて行かないように、言葉を尽くし、神様を証人として、命をかけて守りたかったのです。それなのになぜ彼はコリントを訪れなかったのでしょうか ?

 

2) パウロの真意(2:1-4)

そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。(1) もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。(2) あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。(3) わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。(4)

それは彼らを悲しませないためでした。すぐにでも乗り込んで行って外科的大手術をすることもできたのです。しかしそれでは、確信犯だけでなく心の定まらない者たちも排除することになってしまいます。そこでパウロはすぐには訪問せず「涙の手紙」と呼ばれている聖書には入っていない手紙で、人々に「初めの信仰に立ち返るよう」に訴えたのです。初めの信仰に立ち返るということは、初めの喜びを取り戻すことでもあります。あなたのクリスチャンの友人が神様を悲しませるような罪を犯しても、その人の心が完全に主を拒んでいるのでもない限り、裁いて滅びに押しやるのではなく、忍耐して待つことができます。手紙のやり取りは(特にこの時代では)時間がかかりますが、面と向かって対決するよりも、感情的にならず冷静にやり取りできるので真意が伝わりやすい面もあるのです。パウロはストレートに感情を表す人のようにも伝えられていますが、とても細やかな配慮をしていたことがわかります。私たちも、どうしたら愛が一番良く伝わるのか、神様に忍耐と知恵をいただいて愛し続けましょう。

 

メッセージのポイント
Communion(聖餐)と Communication(意思の疎通) は分け合うと言う意味の共通の語源を持っています。教会は聖いキリストの体であると同時に欠けを持った人間の集まりでもあります。喜びも悲しみも楽しみも苦難も分かち合える友は私たちの誇りです。しかしそれはその人が最初から持っていた素晴らしさではありません。その人を生かし、変えた神様の愛が素晴らしいのです。イエス様の十字架の愛こそがよいコミュニケーション、よい人間関係の土台です。十字架の愛は、自分自身を分け与えることなのです。それは簡単なことではありません。イエス様が十字架で苦しまれたのと同様に、パウロはその生涯をかけて、時には、涙し、苦悩し、非難され、迫害されながらその愛を貫き通しました。

話し合いのためのヒント
1) コミュニケーションで誤解を生ずるのはなぜですか?
2) パウロはなぜ計画を変更したり延期したりしたのでしょうか?