October 18th,- 24th, 2009 Vol.16 No.42

裁きと赦し IIコリント2:5-11

A教会を守るための裁き

1) 教会内で誰かを罰する必要があるのか?

悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。(5)

そんなことは起こらなければ一番いいのですが、時には教会の健康を保つために、教会に大きな悲しみをもたらした人、犯した罪を悔い改めない人を罰しなければならないことが起こります。コリントの教会では実際にそのようなことが起こったのです。教会は、会社でもなければ学校でもありません。むしろ大きな家庭のようなものです。それぞれの家庭に大人にも子供にも守るべきルールがあるように、教会にもルールがあります。教会のルールは、厳しい学校の校則のような細かい規定のようなものではありません。皆さんは神様の掟を覚えていますか?それは神様を愛し、人を愛することです。悲しませるというのは、愛のない行為です。ひどく人の心を傷つける行為や異端的な教えを持ち込むようなことがそれにあたります。

 

2) 罰は教会と本人のためにある

その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。(6)

注意されて行動を改めるなら、それでよいのです。しかし反省することなく同じことを続けて、みんなを困らせたり、悲しませたりするなら罰を受けなければなりません。教会が、困ったところ、悲しいところになってしまわないためです。罰を受けた人は、悲しい思い、恥ずかしい思い、辛い思いをして、もう神様や人々を悲しませるのを止めようと決心するでしょう。この教会の罰のルールはプロテスタント教会では伝統的に「戒規(かいき、Church discipline)」と呼ばれています。戒規とは、誤った教理を教会に持ち込むことや、罪の行い、に対して行使されます。戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の三段階があります。

 

B 裁かれた人を赦し愛する

1) 裁きのアフターケア

むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。(7) そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。(8)

他の組織なら、そのような人を排除して問題は解決です。しかし、キリストの体である教会ではそうではありません。教会には、悲しみをもたらした人が打ちのめされてしまわないように、その人を赦し、愛するという責任もあるのです。神様は、パウロを通して、そのような人を赦してあげなさい、愛しなさいと教えています。誰も、自分を悲しませた人を自分の意志だけで赦し愛せる人はいません。人には出来ないことです。しかし、神様にはお出来になります。そして、自分を神様に委ねる人には、キリストの体の一部となった人にはそれが出来るのです。私たちは赦すことも愛することも感情のレベルの問題ではないことを知っています。それは神様の意思です。私たちが出来ることは、たとえ感情的に赦せなくても、神様がお赦しになり愛しておられるということ事実を認めることです。自分の感情は神様にお任せして待てば良いのです。神様の赦しに人間の心がついてゆけない例は聖書の中にも沢山あります。自分の赦せない自分の感情を正当化することも、イエス様のように赦せないからクリスチャン失格だと思うことも間違いです。

 

2) 赦さなければサタンにつけ込まれる

わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。(9) あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。(10) わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。(11)

教会は神様の愛によって存在している組織なので、赦すこと、愛することができるのです。逆に言えば、そのような愛と赦しがなければ、教会独自の存在意義は失われるのです。赦すということは、私たちの個人の問題ではありません。パウロは、あなたが赦すのは、教会の指導者である私が赦すことであり、わたしたちが赦すのはイエス様が赦されるからだと言っています。キリストの体である教会の本質からくることなのです。赦すか赦さないかは、神様に対して従順か不従順かの選択です。サタンは、私たちが神様に服従しないことを喜びます。それがキリストの教会と見なされている場所で起こっているならサタンにとってはさらにうれしいことです。一つの教会が無くなるよりも、その教会がキリスト教会の看板を掲げたまま、神様に服従せず、その中では愛も赦しもない組織になってしまうことの方がうれしいのです。私たちはこのようなサタンの策略に乗せられることなく、愛することにおいて、赦すことにおいて、受け入れることにおいて従順な教会であり続けましょう。

 

メッセージのポイント
そんなことは起こらなければ一番いいのですが、時には教会の健康を保つために、教会に大きな悲しみをもたらした人、犯した罪を悔い改めない人を罰しなければならないことがあります。コリントの教会では実際にそのようなことが起こったのです。他の組織なら、そのような人を排除して問題は解決です。しかし、キリストの体である教会ではそうではありません。教会には、悲しみをもたらした人が打ちのめされてしまわないように、その人を赦し、愛するという責任もあるのです。誰も、自分を悲しませた人を自分の意志だけで赦し愛せる人はいません。人の組織には出来ないことです。しかし、教会は神様の愛によって存在している組織なので、赦すこと、愛することができるのです。逆に言えば、そのような愛と赦しがなければ、教会独自の存在意義は失われるのです。

話し合いのためのヒント
1) なぜ教会の中で罰することが必要なのですか?
2) 赦さない教会、愛さない教会にサタンはどのようにつけ込むのでしょう?