November 1st,- 7th, 2009 Vol.16 No.44
神様に仕える者の栄光と成長 IIコリント3:1-18
A. 神様に仕える者の栄光
1) 霊に仕える者として
わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。(1) わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。(2) あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(3) わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。(4) もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。(5) 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(6)
私は時々、キリスト教系の学校や企業に入りたいメンバーのために牧師として推薦状を書くことがあります。クリスチャンとして教会の中でイエス様に忠実に仕えている人として推薦するわけです。推薦状はその人が信頼できるかどうか相手が知るために、既にある程度信頼を得ている人が書くわけです。最初に牧師として推薦状を書いた時に、内心「自分もいっぱしの牧師になった」とちょっぴり誇らしい気持ちになったのですが、この部分を読むと、パウロの誇りの足元にも及ばないことがよくわかりました。本当は、私たち自身がその心に神様が書き付けられた推薦状として、初対面の人にもすぐ分かるような徳性を持っているなら紙で書いた推薦状などいらないのです。私たちがそのような者であるのなら、私がくどくど書かなくても永原牧師が推薦する人ならと思ってくれるし、またその人を見るだけで、この人はイエス様が推薦しておられると分かってもらえるのでしょう。 神様が私たちの生き方を喜んで下さるのは、私たちが「文字に仕える者」ではなく、「霊に仕える者」だからです。ここで言う文字と霊とは、当時のコンテキストでいえば、律法に仕えるのか、福音に仕えるのかという違いです。パウロはクリスチャンになる前には、律法に仕える者としてクリスチャンを厳しく迫害する人でした。ですから彼にとってはこのコントラストは人生を180度変えたはっきりしたものだったのです。私たちはイエス様を紹介する者、福音に仕える者、すなわち霊に仕える者として、どう聖書を読むかを問われています。聖書を律法的に読むなら生かす者にはなれません。それは文字を追い、生活の中での規則として理解して、それを守ることを人にも要求することです。それでは聖書を霊的に読むとはどういうことでしょうか?それは自分のインスピレーションを信じて勝手に解釈することではありません。それは、私たちが、神様からのメッセージを正しく理解して、それを人に伝えるという読み方です。 一人一人が神様からのラブレターになるというわけです
a 霊に仕える務め
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。(7,8)
私たちが霊に忠実に仕える者として歩むなら、神様は私たちの人生を光り輝かせて下さいます。モーセは旧約の民の指導者として、神様に祝福され、その顔は同時代の誰よりも輝いていました。彼は律法に仕える者として立てられて、その顔が直接見つめられないほどに神様の栄光で輝いていたのです。しかし私たちに与えられているのは、モーセに与えられた務め以上に尊い、霊に仕える務めです。聖霊は、神様の霊であり、御子イエスキリストの霊です。この霊に仕えるとは、聖書の言葉を律法としてではなく、神様がイエスキリストを通して現された何も比べることのできない愛として伝えることです。
b 人を義とする務め
真の救いイエスキリストを紹介することは、人を正しい状態に取り戻すことでもあります。モーセを通して与えられた神様の律法に適う人間は一人もいませんでした。
人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。(9)
旧約聖書はどうしようもない人間の罪深さを教えてくれますが、新約聖書はそこからの救いである十字架を指し示しています。罪の深さを自覚しなければ、救いの偉大さを実感することも出来ません。旧約も新約も両方神様の言葉として受け入れなければ本当の福音に生きていることにはなりません。聖書の教えは人の罪深さを暴き立てるだけのものではありません。また人間は素晴らしい、人生は素敵だ、というだけのものでもないのです。しかし、人を罪に定める律法が前半の栄光だとすれば、十字架の福音は後半の栄光というだけではなく、救いの計画全体の完成の栄光にあずかっているという意味で、さらに栄光に満ちあふれているといえます。
c この栄光は永遠に失われない
そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。(10) なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。(11)
より優れた輝きが現れれば、どんなに輝いていたものもくすんでしまいます。しかしそれは古い約束が優れていなかったわけではありません。モーセに与えられた十戒は実際輝いていました。人間の基本的な在り方を教えてくれるものだったのです。問題は人間にそれを守る力がなかったことです。人は誰も自分の力で十戒のとおりに生きることができません。人間が努力して神様の認める基準には到達できないということです。しかし神様は全く異なるアプローチでこの問題を解決して下さいました。それが御子イエスキリストの十字架による和解です。神様のレベルに到達できない私たちのために神様の方から降りてきて下さり、罪を清算する十字架の犠牲となり、よみがえられました。イエスキリストを主と信じて従う人は、永遠に神様の栄光をまとうことになります。
B. 神様に仕える者の成長
このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。(12,13) しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。(14) このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。(15)
古い契約、律法はそれ自体が悪いものでは決してありません。それなら私たちは旧約の部分を聖書とはしなかったでしょう。律法が問題なのではなく、律法主義が問題だったのです。書かれたものの問題ではなく読み方の問題だったわけです。イエス様が来て下さり、初めて旧約聖書を正しく読めるようになったのです。それは、イエス様を信じる信仰をもって読むということです。しかし今でも、私たちが聖書を読む時にも様々な覆いが邪魔をして正しく読めないという危険は依然としてあるのです。それはある部分だけを取り上げて聖書全体のメッセージとは異なる受け取りかたをするとか、律法主義的にとらえて人の行いを裁く道具として用いるといったことが起こります。ですから旧約聖書にしろ、新約聖書にしろ、注意深くイエス様の導きを求めつつ聖書の言葉に耳を傾けましょう。
16節以下に覆いを取り除く方法が示されています
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。(16) ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。(17) わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(18)
主の方を向き直ればいいのです。主の栄光が自分を輝かせていないのは、心が主の方を向いていないからです。イエス様より他人の顔、心配事、仕事、勉強のことが気になっていませんか?であれば、方法は一つ主を見上げることです。パウロは、ここでいう主とは霊のことですと注意しています。イエス様を霊的な存在として見上げなさいということです。それは、2000年前に生き、その言葉と行いで人々に救いを与えた方としてではなく、今も目には見えないけれど生きて働いておられる方としてイエス様を注目しなさいということです。聖霊に求めなければ日々の霊的成長はありません。聖霊はイエス様の霊なのですから、イエス様と呼ぼうが、聖霊様と呼ぼうが同じ方が応えて、あなたの歩みに実際の力を伴った栄光で満たして下さるのです。
メッセージのポイント
聖書は神様からのラブレターといわれますが、聖書を読むだけで、クリスチャンに出会うことなしに信仰を持つ人は多くはありません。クリスチャンも神様からの人々への手紙なのです。私たちの生き方は人を神様に引き寄せるラブレターでしょうか?それともうんざりさせられるスパムメール、イエス様を信じないと永遠の火に焼かれるぞという脅迫状になってはいませんか?
話し合いのためのヒント
1) 文字は殺し、霊は生かすとはどういう意味ですか?
2) 私たちに与えられている栄光とはどのようなものでしょうか?