November 8th,- 14th, 2009 Vol.16 No.45

宝の入った土の器 IIコリント4:1-15

A. 神様に仕える者の栄光

A. どんなことがあっても落胆せずに歩み続けられる理由

1) 神様にゆだねられた務めに生きているから (1-4)

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。(1) かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。(2) わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。(3) この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。(4)

イエス様を信じて新しい歩みを始めても、人生に落胆するようなことが無くなるわけではありません。むしろ与えられている任務のためという、新しい困難も加わります。それでもパウロは、私達が落胆する事はないと言っています。それは私たちが、先週お話ししたように、憐れみによって与えられた新しい務めを担っているからです。主の霊に仕えているなら、そこには自由があり、栄光が輝き、主と同じ姿へと変えられてゆく成長があるからです。私たちの言動を好意的に受け入れる人もいれば、拒絶する人も、迫害しようとする人も地上にはいるのです。しかし神様に仕える者には神様からの慰めがあり、癒しがあり、力を与えられるので落胆することはありません。クリスチャンはひと時、失望することはあっても絶望することはありません。落胆するのは、仕える価値のない虚しいものに仕えている人だけです。

 

2) 自分自身ではなく主であるキリストを宣べ伝えているから (5,6)

わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。(5) 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(6)

自己実現を目的に生きる人は、自己宣伝をしなければなりません。自己実現とはいっても人間関係の中で生きている以上、人々に自分を知って認めてもらわなければ、それはかなわないからです。クリスチャンは自己宣伝を止めてイエス・キリストを宣伝するようになった者です。自己宣伝なら失敗し落胆もするでしょう。問題のある自分を宣伝するのですから、失望を与えることもあれば、誇大広告だ、虚偽広告だと怒りを買うことさえあるでしょう。しかしキリストを宣べ伝えるなら落胆は無用です。落胆するのは、自分自身を宣べ伝える人です。イエスキリストの福音はすべての人に必要なのです。クレーマーは出るかもしれませんが、私たちが宣べ伝えている方には非の打ち所がないのですから、時が良くても悪くても堂々と伝え続ければよいのです。闇と対極にある光を作られた神様は私たちの心の光としてイエス様をお送り下さり、この私たちの心におかれた光に触れる人も神様を知るようになるのです。

 

B. 私たちは宝を納めた土の器

1) 犠牲を払わなければ新しい命は生まれない (7-12)

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(7) わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(8,9) わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。(10) わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(11) こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。(12)  

わたしたちは神様の栄光の器であるわけですが、特に「土の」器と言われていることに注目しましょう。それは、金の器でも陶器でもなく庶民が日常生活で用いる器のように、高価で立派な者ではなく、むしろ弱く小さい者であることを意味しています。それで十分なのです。いやむしろそうでなくてはならないのです。そうでなければ私たちは簡単に、主を誇る者ではなく自分を誇る者になってしまうでしょう。私たちが弱ければ弱いほど、小さければ小さいほど主の栄光を輝かせることが出来ます。その輝きは私たちの弱さ小ささを十分にカヴァーしてくれます。  ところで、その主の栄光を現すためには、弱くても小さくてもいいのですが、なすべき働きがあります。弱く小さいことは働きをしない言い訳にはなりません。その働きは10節以下に記されています。イエス様の命をこの体に現すことです。そのためにイエス様の死を身にまとうというのですが、それは単に十字架のあがないを信じ伝えているということだけを指すのではありません。イエス様の死は、私たちの新しい命のために払われた世界で最も高価な犠牲です。それを身にまとうということは喜んで犠牲を払う人になるということです。それは言い換えれば愛するということです。あなたに与えられた新しい命は、あなたが愛することで伝わります。

 

2) 同じ信仰の霊によって語ろう (13-15)

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。(13) 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。(14) すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。(15)

パウロはここで詩編116編(ただし70人訳)を引用し、困難なときであっても神様を信頼し、その意思を伝え続けた旧約聖書の人々と同じスピリットでイエス様を宣べ伝えているのだと語りかけています。過去における十字架の恵みは、未来における復活と一体のものです。十字架で罪赦された者は、体が滅びても、新しい栄光の体をあたえられ新しくされ、罪人として断罪されるためではなく、子として迎え入れられるために神様の前に立つ日が来るのです。私たちは貧しい土の器であっても、このような神様の約束を伝える者として、神様の栄光が内に満たされているので、光り輝いています。それは自分自身の輝きではありませんから誇ることは出来ません。弱さを持ったままなので、失敗することも弱ってしまうこともあるのです。しかし私たちには旧約時代の神様を愛した人々やパウロと同じ信仰の霊が与えられています。この霊に頼ってイエス様を宣べ伝えましょう。

 

メッセージのポイント
世界を創られた神様が人として世界の中に来て下さったと同様に、私たちを創られた神様は私達の心の中に輝く光として来て下さいました。私達は優れた者でも偉大な者ではなく、むしろ脆く小さい者です。神様は敢えてそのような私達を選び立てられました。人のではなく神様の栄光が輝くためです。土の器であることを嘆くのではなく、私達の内に納められた宝を喜びましょう

話し合いのためのヒント
1) 私達が土の器とはどういう意味ですか?
2) この世の神とは何のことですか?