November 22nd,- 28th, 2009 Vol.16 No.47

和解のための奉仕者となる IIコリント5:11-21

 

A. キリストの愛

1) キリストの愛が私達を駆り立てる (11-14)

主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。(11) わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。(12) わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。(13) なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。(14)  

何かに真剣に取り組むとき、それが人々から理解されなければ正気ではないと思われます。偉大な発明をした人々の多くは、最初人々から白い目で見られました。イエス様も、当時の人々から正気の人とは思われませんでした。イエス様は誰も教えなかった本当の愛を伝えたので正気だとは思われなかったのです。十字架と復活を通して彼こそが真理だと気付いた者がクリスチャンとなったのです。私たちはイエス様ほど孤立無援ではありませんが、それでもイエス様の愛に従おうとするなら正気とは思われないこともあるのです。それはパウロの時代から続いていることです。だいたいクリスチャンという言葉自体、信じる者を馬鹿にした呼び名として、パウロの宣教の拠点であったアンティオキアで使われ始めた言葉です。コリントの教会の一部の人は、パウロがイエス様に狂っていると悪口を言っていました。「私が心ない人からは狂っているように見えるのだとしたら、私はそれほどイエス様を愛しているのです。」とパウロは言っているのです。そして「しかし皆さんには冷静に丁寧に教えますから、しっかり心に留めて下さい」と続けました。私たちはイエス様への愛に駆り立てられるように生きているのです。こんなに素晴らしい愛を伝えずにはいられないから伝えます。クリスチャンの義務として伝道しなくてはならないと思っているなら、それは間違った動機であり良い結果を生むことは出来ません。しかし、ただイエス様に対する情熱を直接その人にぶつけることも良い結果を招きません。ここでパウロは、伝える時には伝えたいその人に対する配慮が大切だと教えてくれているのです。誰であれ人にイエス様を信じてもらいたいなら、その人の本当の必要と、今自分が何をするべきなのかを、祈り求め、考えて接してゆきましょう。

 

2) キリストの愛で人生の目的を知る (15)

その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(15)

日本のプロ野球で最年長の現役ピッチャー工藤公康選手は今シーズンで現役引退の可能性があったのですが、西武で続けることが決まったそうです。インタビューで彼は「自分から止めるとは決していわない事に決めている」と話していました。その決意は、かつてのチームメートがまだ若いうちに亡くなったときにしたそうです。自分からあきらめてしまうのは、彼に誠実ではないと思うので、使ってくれるチームが無くなるまでは現役を続けたいのだそうです。ホークスにいた藤井投手は工藤さんのために命を差し出したわけではありませんが、工藤さんはその気持ちを大切にしたかったのです。イエス様は私たちを誰よりも愛し、私たちを救うために死んでくださいました。わたしたちは、この愛に応えるためにどのように生きたら良いのでしょうか?その答えがこの15節です。私たちの目的は、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださったイエス様のために生きることなのです。

 

B. キリストによる和解 (16-21)

1) 和解させていただく(16,17,20,21)

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。(16) だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(17) ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。(20) 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(21)

イエス様が来て下さったのは、私たちがもう一度神様と和解し、さらに、人々にこの和解を伝える者となるためです。ここにいる多くの皆さんは、イエス様を主と信じてこの和解を受け入れた者としてここに集っています。けれどもまだあなたが、イエスキリストを信じていないのなら、どうかイエスキリストについてもっと良く知って下さい。イエス様はあなたの人生に最も重要な方です。知りたいことがあれば何でもここに集っているクリスチャンに聞いて下さい。もし、あなたが心の中でイエス様を主と信じているなら、それをどうぞ公に告白し、バプテスマを受けてこの教会の一員となって下さい。このことには年齢や経験の制限はありません。ただ神様は心で思っているだけではなくはっきり、その口で告白することを願っておられます。

 

2) 和解の奉仕者となる(18,19)

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。(18) つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(19)

時々結婚をゴールインと表現されることがありますが、結婚は婚約時代のゴールであると同時に、結婚生活のスタートです。バプテスマを受けることも、ゴールでありスタートでもあります。それは救いを求める旅のゴールであり、和解の奉仕者としてのスタートです。皆さんに与えられている任務は重要です。神様はイエスキリストによって私たちとご自分とを和解させて下さいましたが、その和解の言葉をまだ聞いていない人に伝えると言う働きが残っているのです。それが私たちの務めです。私が生まれたのは第二次世界大戦の終わった10年後でした。戦争に繋がる記憶はほとんどなく育った世代でしたが、1972年と74年にグアムとフィリピンで元日本軍将兵が見つかり帰国するという出来事があり衝撃を受けました。戦争が終わったという事実を知らずに、あるいは受け入れずに30年近くジャングルの中に潜んでいたのです。 イエス様が世に来られて2000年、日本では伝道が始まって500年、プロテスタントの伝道が始まって150年、それでもこの国では100人のうち99人が勝利の知らせを受け取っていません。この知らせを伝えるのが私たちの任務です。燃えるような熱心と、冷静で思いやりのある態度を兼ね備えて務めを果たしてゆきましょう。

 

メッセージのポイント
神様を知らない人にとって、自分のために生きるという事は当たり前のことでしょう。しかしそのことが人間関係の中で問題を起こします。神様は私たちを愛する事が出来る者として作って下さいました。愛は誰かのために喜んで犠牲を払うことです。愛する心は神様が私たちに与えて下さったものの中で最も尊いものです。しかし、神様に繋がっていなければ愛することは十分には出来ません。神様が愛の源泉だからです。そこでこの世界を愛で満たすためには、人々が神様と繋がることが必要なのです。人に対する無関心や憎しみ無慈悲は本来「愛する者」として創造された私たちにはふさわしくありません。イエス様は私たちを再び神様と結びつけるためにこの世界に来て下さいました。私たちがイエス様を信じ神様と和解できたのは、イエス様を紹介してくれる人がいたからです。あなたもイエス様を知ったなら、彼のために生きる人になり生ます。それは彼を人々に紹介するという生き方なのです。

話し合いのためのヒント
1) イエス様が十字架にかかられた目的は?
2) イエス様のために生きるとは?