December 13th,- 19th, 2009 Vol.16 No.50

平和の人 アドヴェント3 / マタイ2:8-20 イザヤ9:5

A 平和をもたらす方が来られた

1) 知らされた救い主のしるし(8-12)

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

神様の栄光が現れるとき、その輝きに人は恐れます。神様の偉大さと、私たちの卑小さのコントラストは大きいのです。恐れて当然です。人はその歴史の重要なターニングポイントで神様の臨在にふれ、恐れひれ伏し、神様からのメッセージを聞いてきました。アダムとエバが、カインが、アブラハムが、ヤコブが、モーセが同じ恐れを体験してきました。その中でも人類最大のターニングポイントが、ここに記されている出来事です。しかもそれを告げられたのは、王でも、預言者でもなく、名前も記されていない羊飼いたちでした。その内容は、待ち望まれていた特別な方が生まれたというものです。イエス様が生まれたベツレヘムはその1000年前にダビデ王が住んでいた町でした。そこで救い主が生まれたというのですから、人々がダビデのような王になることをイエス様に期待しても不思議ではなかったのです。しかしイエス様は、人々の期待を遥かに超えた方でした。イスラエルの人々は、神の民とは自分たちの民族のことと理解していましたが、神様にとっては全人類がその民だったのです。残念ながら当時の人々には、そのスケールが大きすぎて理解できず、受け入れることができませんでした。しかも羊飼いたちに教えられた救い主のしるしは、スケールの大きさには一見似ても似つかないみすぼらしいものでした。そのしるしとは飼い葉桶の中に寝ている赤ちゃんだというのですから。しかし良く考えてみると、そのことも神様の計画の偉大さの現れです。聖書の神様は、その人の身分や職業、財産の多寡で救ったり救わなかったりする方ではありません。先週、ある国の身分制度のリポートヴィデオを見る機会がありました。その国の支配的な宗教観では、最上位の身分は神様の頭から出た者たち、その下は腕、太もも、そして最下層の人々は足から出たと考えられています。ところがさらにその下があって、人口の1/4を占めるその人々は、神から出たものではないとさえいわれているのだそうです。ですから彼らには、私たち考える基本的な人権さえ十分に認められていません。その国ではクリスチャンもマイノリティーなのですが、教会はカトリックもプロテスタントも共に力をあわせて、その最下層のさらに下の人々の人権を確立するために、教育、経済、保健、法律などあらゆる分野で働いています。クリスマスのしるしは、誰もが例外なく幸せになれるしるしなのです。

 

2) 平和は御心に適う人に(13,14,イザヤ9:5)

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

この神様からのメッセージのもうひとつのポイントは生まれた救い主が平和をもたらす、ということです。そのことは、旧約の時代に預言者イザヤも預言していたことでした。<ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた、ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。>イエス様は平和をもたらす方なのです。その後に気にかかる言葉が続いています。「御心に適う人に」です。時々人は、平和の君が来たのになぜ世界は平和ではないのですか?と皮肉っぽく質問しますが、答えは簡単です。それはあまりにも自分勝手に生きているひとが多いからです。御心にかなう者が少ないからです。ここには平和がくるのは「御心にかなう人に」だ、と書かれています。「御心にかなう人」とはイエス様を信じて彼に従う者のことです。平和はすでに、この人々の心には来ているのです。取り巻く世界がどんな状態であっても、心には平和があります。信じる人々の間にも平和があります。あなたも世界中が目に見える平和に包まれる日を待っているのではなく、イエスキリストに従う決心をして平和を先取りしてください。

 

B 羊飼いという生き方

1) 普通の人々(8,9)

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

羊飼いは日本では珍しい仕事ですが、当時のイスラエルではよく知られていた仕事でした。イスラエルにおいて、すべての時代にわたって敬愛されているダビデ王ももともとは羊飼いでした。しかし、イエス様のお生まれになる時代では、苦労は多く社会的にはあまり認められていない、今ならきつい、汚い、危険な3Kの不人気な仕事だったのです。その仕事の性質上、当時支配的だった律法主義の様々な細かい規定を守りたくても守れませんでした。当時の「立派な」人々から見れば羊飼いは、宗教的規則を守らない「罪人」だったのです。神様はそんな羊飼いにも救い主の到来を教えました。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」とさえいわれたのです。この恵みから除外される人はひとりもいません。

 

2) 確かめる羊飼い(15,16)

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

さて、羊飼いは話を聞くだけでは満足しませんでした。私たちの周りには、クリスマスぐらいは救い主のお話を聞いてもいいと、教会に足を運んでくれる人も多いのです。しかしそれだけで満足してもらっては困るのです。羊飼いはその話が本当であるか確かめたいと思ったのです。そしてそのとおりであることを知りました。イエス様が神様だとは思えない人はどうぞ確かめてください。どこで?それは教会です。教会は建物ではなく、クリスチャンと呼ばれる人々の共同体です。クリスチャンにも知っていただきたいことがあります。教会は現代の馬小屋、今人々が救い主のおられることを確かめる場所です。馬小屋のようであってもいい、立派な説教壇がなくてもいい、でも確かにイエス様がそこにいなくては、教会は教会の役割を果たせません。また、あの夜のヨセフとマリアのように、どこにも行き場を失った人々が招き入れられるところでなくてはなりません。そして、私たち一人一人は、その中におかれている飼い葉桶のような存在であることを期待されているということです。イエス・キリストを信じ従っている人は、飼い葉桶のように貧しく、小さい者であってもイエス様がその中にいてくださる器なのです。

 

3) 知らせる羊飼い(17-19)

その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

羊飼いたちは聞いて、見て、確認しました。しかし、まだ満足していません。その次にしたことは人々に知らせことです。こんな喜ばしい出来事を黙っていることはできなかったのです。しかし聞いた人々の反応はいまいちのようです。不思議に思っただけで、羊飼いのように確かめに行くでもなく、みんなで一緒に喜んだとも書いてありません。現代のクリスチャンは羊飼いのようにナイーヴではありません。大抵の人がどんな反応をするか知っているので、喜んで積極的に伝える勇気がわかないのです。今はそれを聞きたくないという人の方がはるかに多いのです。しかし今こそ良い知らせを必要としている人がいるのです。この前、それを伝えて心を開かなかった人でも、心の状態は変わります。それは相手の気持にお構いなしに伝道しなさいということではありません。口を開けば「イエス様を信じましょう」という人では、誰も話を聞いてくれなくなります。そうではなく、私たちがイエス様に従う者としての姿勢を変わらずに持ち続けるということが大切なのです。それは口から出る言葉であるよりも、私たちの態度によく表れるものです。

 

4) 神様をあがめ賛美する羊飼い(20)

どのようにしてこの態度を保ち続けることができるかの答えが最後の20節にあります

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

彼らは人々に話してもあまり喜ばれなかったことを、私たちのようにがっかりしてはいません。自分が知った出来事の喜びのほうがはるかに大きかったからです。なかなか伝わらない事を嘆くのではなく、伝えていることの素晴らしさを、そんな素晴らしいことを伝えることのできる特権を喜びましょう。私たちはこの喜びを礼拝と賛美で表現するのです。私たちは、それをみんなでするために週の初めの日を主の日としてここに集っているのです。また終日も主イエス・キリストを賛美しながら歩んでいるのです。礼拝と讃美こそ、平和の君を一人一人に紹介してという役割を与えられた私たちが、いつまでも変わらずにいられるための力の秘密です。

 

メッセージのポイント
平和の君と唱えられた方が世界に来られて約2000年。それなのに世界は決して平和になったとはいえません。平和の君が来られたのに平和が実現していないのは、平和の君に従う「御心に適う人」がまだまだ少ないからです。世界で最初に平和の君の到来を告げた羊飼いたちのように平和を伝える人となりましょう。それは権力者や政治家の仕事でも、宗教家の仕事でもありません。当時下層階級の庶民であった羊飼いによってイエス様の降誕が世に告げられたように、神様は普通の人々である私たちを用いて平和を実現なさるのです。

話し合いのヒント
1) 平和とは何ですか?
2) なぜイエス様は「平和の君」と称えられたのでしょう?