December 20th,- 26th, 2009 Vol.16 No.51

神様が人となられた日 クリスマス礼拝 / ヨハネ1:1-18

A. イエス様は神か?神の御子か?それとも?

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 (1-5)

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(9)  

先週まで、クリスマスを待ち望むアドヴェントの日曜日、クリスマスの出来事が私たちにとってどのような意味を持つのかを考えてきました。今朝はアドヴェント最後の日曜日です。ユアチャーチでは、他の多くの教会と同様に毎年アドヴェント第4日曜日をクリスマス礼拝として行っています。  今日取り上げるヨハネの福音書は、マタイやルカのように具体的なクリスマスの出来事を記録してはいませんが、その意味を深く教えてくれています。今、始めに読んだ1〜5節に神様が最初におられたこと、すべてをお作りになったこと、人間イエスとして世に来られたこと、世は彼を受け入れずに十字架にかけたことが書かれています。福音書のエッセンスのような部分です。1節にはイエス様が世の初めからおられた神様であって、被造物ではないことがはっきり書かれています。2節では「イエス様が神様と共にあった」とあり、それは御自身が単純に創造主と同一なのではなく、救い主という別の在り方をされる方として初めからおられた、ということを意味しています。その方が永遠に世界の外側におられるのではなく、この世界に入ってきてくださった時、それがクリスマスです。イエス様を表している「言」、言葉ではなく言と表現しているのは、原語が、単に言語を意味するものではなく真理、論理という意味合いの強いものだったからです。それはロゴスということばで、今では何々の理論を –logy と表現する形に見ることができます。3節にある万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。ということはイエス様なしにこの世界は成り立たないということです。一見イエス様なしに動いているように見える世界であり、生きている人間のようですが、本当はただ主の憐れみによって保たれている世界であり、生かされている人間なのです。神様なんて必要ないとうそぶいている人は、イマヌエル(共におられる)神様、イエスキリストなしに耐えることのできない試練にたまたま会っていないだけなのです。またイエス様は、目に見えない、どこにいるか分からない神様ではなく、私たちに語りかけ、働きかけ、導いて下さるという意味でも「言」と表現されるにふさわしいお方です。イエスキリストはご自身をあなたに与えるために、貧しい両親の無力な赤ちゃんとしてこの世界にこられました。このことから、富んだ者、有能な者、有力な者のためではなく、むしろ貧しいもの、小さい無力な者を守り導くために来てくださったことがよくわかります。 クリスマスの光は心を温めます。光は、まことの光であるイエス様をお迎えするのにふさわしいシンボルです。暗い道を照らし、人を導く街灯のように、イエス様はあなたの人生の道を照らし導いて下さるのです。

 

B. 今でも必要な証し人

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 (6-8)

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 (15)

ひとりでも多くの人がイエス様を知ることができるように遣わされたバプテスマのヨハネが声を張り上げても、結局イエス様を受け入れた人は、ペンテコステの時まで多くはありませんでした。今ではクリスチャンの数もだいぶ多くなりましたが、それでもイエス様を知らない人は多く、この国のように人口の1%ほどの地域もあるのです。それに、キリスト教国とされていても、ちょうど日本の自称仏教徒のような名前ばかりのクリスチャンが大多数を占める国もあるのです。未だに「闇は光を理解」していない状態が続いています。ですから、バプテスマのヨハネが最初に担った役割は今でも必要です。それは私たちに託されています。私たちが信じさせることはできません。しかしヨハネのように、光について証することができます。そして、そのことがきっかけとなって、イエス様がその人の心をノックするとき、その人は心の扉を開くのです。証とは,イエス様のことをお話することとは限りません。私たちの行動が、存在自体がイエス様を証しているのです。

 

C. 神様からのクリスマスプレゼント

1) 神の子となる資格

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(10-14)

イエス様が地上におられた時代も、今の時代も、イエス様を主と信じることのできない人が多くいる中で,信じることができたことはただ神様の憐れみというほかありません。それは私たちが思っている以上に大きな恵みです。ここでは「神の子となる」資格を与えられた、と表現されています。私たちは、その出自に関わらず神様によって、神様の子とされたのです。この資格が私たち自身の清さ、正しさ、強さによって得られるものであったならば、私たちは永遠にその資格を得ることはできなかったでしょう。イエス様を主と信じるまでにどのような者であったか、どんな家庭に育ちどんな生活をしていたかということは、神の子としての私たち未来に悪い影響を及ぼすことはできないのです。ただし私たちが、振り向かなければという条件があります。せっかくその資格をいただいたのに神の子らしく歩めないのは、ロトの妻(創世記19章)のように欲望によって生きる世界=闇に心が残っているからです。

 

2) 恵みと真理

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(16-18)

恵みや真理ということばにあこがれを覚えない人はいません。恵まれた人、真理を悟った人になりたいと願います。これらは日本では人の名前にも良く用いられる漢字です。自分の欲望こそ真理、欲望の充足こそ恵みと本気でそう考えている人はそれほど多くはないでしょう。それでも多くの人が闇の価値観を離れることができないのはなぜでしょうか?それはイエス・キリストを主と受け入れることができないからです。ここで言われている神様を見るとは、真理と恵みにふれるということでもあります。しかしそれは、イエス・キリストを通してのみ現れているので、イエス・キリストを見上げること以外に神様を見ること、恵みと真理を得ることはできないのです。クリスマスはこの神様からのプレゼントがなされた日です。どうかこの恵みがあなたに無償で提供されていることを知ってください。受け入れてください。感謝してください。

 

メッセージのポイント
イエス・キリストが預言者や教祖でなく、世に来られた神様であることがここに記されています。目に見えない、どこにいるか分からない神様ではなく、私たちに語りかけ、働きかけ、導くという意味で「言」と表現されています。彼の内に求めるべき本当の命があり、それが私たちを照らし、導く光として、この世界に届いた。それがクリスマスの出来事の意味です。しかし彼がどんなにはっきりと輝いても、気がつかない人は気がつきません。そこでヨハネのような証し人が今でも必要なのです。夜の闇が深ければ深いほど、光の持つ意味は大きいのです。光を持ってこられたイエス様は、私たちにその光を渡しました。高く掲げて歩んでゆきましょう。

話し合いのヒント
1) 私たちにも委ねられているヨハネ的役割とはどのようなものですか?
2) 神様からのクリスマスプレゼントとはどのようなものでしょうか?