January 3rd,2010-9th, 2010 Vol.17 No.1

私たちは生ける神の神殿  (2コリント6:14-7:1)

A 生ける神の神殿

1) 何から、どのように離れているべきなのか?(14-16a)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。(14) キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。(15) 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。(16a)

コリントの教会では少なからぬ混乱がありました。教会の中にイエス様の教えを曲解して事なる理解を宣伝する者が混じっていたり、信仰のない人と同じような性的放縦が横行していたりということがあったのです。コリントの町は、活気はありましたが神様よりも欲望と快楽を追及する事に熱心な雰囲気を持っていました。パウロがこう切り出したのは、コリントの教会にそのような特殊な事情があったからです。ここでの軛とは農作業のために二頭の家畜を並べて働かせるための板ですが、例えられているのは、神様の働きを忠実に果たすためのパートナーを注意深く選ばなければならないということです。不法な者とかベリアル(サタン)とか闇とか不信仰、偶像と表現されるような極端に者を神様の働きのパートナーとして選んでしまう事が起きるような教会だったということです。現代の教会の問題のひとつは、このようなテキストから、自分好みの解釈を施して、クリスチャン同士の結婚しか許されないとか、できるだけクリスチャン企業で働いた方がいい、他の人ではなくクリスチャンと友達になるべきだといった自分の考えを、あたかも神様が命じているかのように教える人がいるということです。聖書の言葉は、聖書の全体と、その書が書かれたコンテキストと、今自分が置かれているコンテキストを注意深く総合しなければ正しく解釈することはできません。

 

2) 私たちは生ける神の神殿 (16b, 出エジプト29:45, レビ26:12, エレミヤ31:1, エゼキエル37:27)

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(16b)

神様は最初に私たちをお創りになり、私たちが背を向けても滅ぼすことなく憐れみを持って見守り、ついにはイエス様として来てくださった方です。私たちはもう一度、イエス様の民として再出発することができると約束されているのです。私たちが神殿なのは、汚れから身を避けているからではなく、この世界の中に置かれていても、神様を心の王座にお迎えしているからです。罪深い人々から遠ざかることで、神様が共にいて下さえるのではありません。人々に近づいてゆくことで神様は共にいて下さるのです。それは、イエス様の地上での歩みを見れば明らかです。私たちはイエス様のように、人々の中にあって、忍耐強く、愛し続け、助け続け、伝え続けることを求められています。もちろんそれは、人々と調子を合わせて神様を悲しませることを平気でするということではありません。イエス様は罪人とみなされた人々を愛され、そのような人々との宴会を楽しみましたが、神殿を金儲けの場所にしているような人々に対しては、商売の台をひっくり返してしまうほどに怒りを見せられました。 大切なことは、神殿がどこにあるかでも、どんな建物なのかでもなく、そこにどれだけリアルにイエス様がおられるかということです。あなたがどれだけ本気でイエス様と付き合っているか?イエス様のために、イエス様と共に歩んでいるか?ということです。

 

B 生ける神の神殿の聖さを保つ

1) 世から出て神様の子となる (17,18 イザヤ52:11, エレミヤ51:45, ルカ10:25-37, マタイ15:11-20)

だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』 全能の主はこう仰せられる。」 (17,18)

イエス様の時代のユダヤ教の有力なグループの一つがファリサイ派と呼ばれた人々です。ファリサイとは穢れからの分離を意味する言葉です。彼らは、罪人とみなされていた人々や、穢れと考えられる物事から離れていることで聖さが保てると考えていました。イエス様は彼らの典型的な姿を、「よいサマリア人」のたとえ(ルカ10:25-37)で明らかにしています。強盗に襲われて倒れている人を見ても、穢れる事を恐れて道の反対側を通り過ぎてしまうのがファリサイ人。倒れている人を助け、介抱し、自腹を切って旅人を助けたのは、ユダヤ人から穢れているとみなされたサマリア人だったという話です。イエス様はファリサイ派とは正反対の歩みをなさいました。イエス様は常に、罪人、穢れた者とされる人々の側におられました。人を穢すのは、穢れているとされる人や物ではなく、人の心から出てくる悪い思いが人を穢す(マタイ15:11-20)のだとおっしゃいました。クリスチャンはああしてはいけない、こうしてはいけない、これを食べてはいけない、飲んではいけない、というのはファリサイ的な聖さの基準です。イエス様が離れなさいと言っているのは、心の中から出てくる汚れ、悪意、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口のことです。イエス様が求めておられる真の聖さを保つことより、ファリサイ的聖さを形式的に保つことの方がはるかに簡単です。本当に汚れから離れたいなら、するべきことはイエス・キリストを主と信じついて行くこと以外にはありません。

 

2) 完全に聖なる者とは (7:1)

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。(7:1)  

この言葉をファリサイ的に受け取るなら、私たちはキリスト教ファリサイ派になってしまいます。それは、自分がいただいたイエス様の福音をイエス様が最も嫌われた律法主義にすり替えて人に押し付けて裁く人になってしまうということです。自分が寺や神社の境内には入らない、異教のお祭りには見物にも行かない、お葬式でも異教的な儀式には加わらない。クリスチャン以外とは付きあわない。自分の事としてそう決めているならまだしも、それを人にも要求し、出来ない人を裁くのはイエス様の弟子ではありません。私たちの聖さは、世界から孤立する事によって保たれるのではなく、イエス様のように出てゆくことによって保たれるのです。新しい年もユアチャーチはイエスさまと共に大胆に世に出て行く教会であり続けましょう。完全に聖なる者はイエス様だけです。今年の最後に、ほん少しでもイエス様の聖さに近づけたと実感できるような一年の歩みを初めましょう。

 

メッセージのポイント
神様が私たちに求めておられる聖さがどのようなものであるかを間違うと、私たちはキリスト教ファリサイ派になってしまいます。キリスト教ファリサイ派は福音をキリスト教律法主義に変えて人を裁き、救いに招くと言いながら、却って人をイエス様から遠ざけています。私たちの聖さは、世界から引きこもる事によって保たれるのではなくイエス様のように出てゆくことによって保たれるのです。新しい年もユアチャーチはイエスさまと共に大胆に世に出て行く教会になりましょう。

話し合いのヒント
1) 信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれるとは?
2) 私たちが求められる聖さとは?