January 31st,- February 6th, 2010 Vol.17 No.5
主の貧しさによって豊かに (2コリント 8:9-15)
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
私たちが心豊かに人生を歩めるのは、イエス様の恵みが私たちを富ませたからです。皆さんはそれがどのような恵みであるか知っていますか?イエスキリストは、神様という豊かな地位をすてて人となられ、十字架の死を遂げられました。当時の多くの人々は全能の神様なら、人となることはできるかもしれないけれど、罪人として捕らえられ死刑になって死ぬなんて、救い主とはいえないし、ましてや神様でなどあるはずはない、とイエス様を主と受け入れることができませんでした。しかし十字架の本当の意味は「犠牲」だったのです。作ってくださった神様に背を向けて、自分の思いのままに歩むという、人の罪を清算するために、地上を歩まれ、自分の物は何一つ持たずに、衣服まで与え、最後に命まで差し出されたのが、私たちの主イエス・キリストです。このことを信じ、イエス様を主と受け入れた人に与えられるのは「永遠の命」です。永遠に神様と共に居られるという、どんな高額なお金でも買うことのできない神の国の国籍をいただいたのです。以前の私たちはこのイエス様の例話のような生き方をしていました。
群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。
コリントの人々はその豊かさに気付かず、自分たちが豊かに与えることのできる者であることを忘れていました。パウロは、あなたの豊かさに気付きなさい、と言っているのです。それは今の私たちに対する励ましでもあります。パウロは自分に与えられている豊かさを安く見積もってはいけないと警告しています。何を持っていないからできないという言い訳をしてはいけません。それよりも、ほんの少しでも持っているものを思い切って献げてみることです。それはお金には限りません。労力や時間でもそうなのです。
進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。
自分はどう神様に用いられるのだろうと考えるとき、ある人は、自分には能力が不足しているから、財産がないから、経験が少ないから、誰かに任せておこうと思ってしまいます。そして自分は神様の目から見てつまらないものなのだと思い込んでしまいます。しかし神様は持っていない物を手に入れてから献げなさいと、仰っているのではありません。どんなに小さく見えても、今持っているもの、出来ることを献げるなら、喜んで受け入れて下さるというのです。信仰はからし種ほどもあれば十分用いられるのです。イエス様の奇跡によって5000人の人が満腹したものは何だったでしょうか?たった五つのパンと二匹の魚でした。イエス様が最初になさった奇跡は結婚式で水をワインに変えたことでした。パンと魚を持っていたのは男の子でした。水瓶に水を入れて宴会の世話役のところまで運んだのはイエス様に命じられたその家の召使いたちでした。12弟子の一人、ペトロの弟アンデレは、弟子の名前の紹介されている箇所以外には二回しか聖書に登場しない目立たない弟子ですが、そこでは重要な役回りを果たしています。奇跡のパンと魚を持っていた男の子を見つけたのが彼でした。また、弟子の中で最初にイエス様に会って、やがて一番の弟子となる兄をイエス様のところに連れていきました。若すぎるから、年をとっているから、子育て中だから、まだ学生だから、クリスチャンになったばかりだから、という言い方はしないことにしましょう。今だからできることがあるのです。それをするとき、イエス様はあなたを通して奇蹟を起こされます。ここにいる誰もが奇蹟の種を持っているのです。
他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
私たちが本当は豊かであるのに、気付かずその豊かさを楽しめない原因は、今までお話してきた、自分は貧しいと思ってしまうという傾向のほかにもうひとつあります。それは、つい人と比べてしまうという傾向です。私たちは良いことも悪いことも人と比較して考えて、「神様、不公平です」とつぶやいてしまいがちです。人と比べる思い(優越感、劣等感)はサタンによって私たちの心に蒔かれた毒麦の種です。なんであれ神様に献げたいという善い思いも、人と比べると醜い物に変わってしまいます。その思いは、神様の声を聞こうとする時にノイズとなって邪魔をします。このノイズを消すことはできませんが、神様の声に集中して耳を傾けるなら、つまり礼拝すること、祈ることを言っているのですが、気にならなくなれます。人がどう祝福され、どう取り扱われるのかを気にしなくなれるくらい、礼拝に、祈りに集中しましょう。
「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。
パウロが引用したこの出エジプト記の16章には、神様が天から蜜の入ったウエハースのような物を降らせ人々の飢えをいやしたことが書かれています。神様はモーセを通して一人あたり1オメル(約2.3リットル)を家族の数に応じて集めなさいと命じました。多く集めた者も、少ししか集めなかった者もいましたが、全員が食べるのに丁度良かった量だったのです。パウロは、神様の与えておられる豊かさがキリストの体全体に与えられており、それぞれの部分がただ神様を信頼して、自分の持っているものを差し出すなら、すべての人の必要が満たされることを伝えたかったのです。それは教会の外に関心を向けないということではありません。世界に向かってイエス様の愛を伝えたいなら、キリストの体が健康で豊かであることが大切なのです。
メッセージのポイント
私達の財産は限られていますが、天国の富は無尽蔵です。この富を私たちに相続させるために、イエス様はご自身のすべてを献げられました。私たちのすべての罪を引き受けて十字架の死を受け入れるまでに誰よりも身を低くされました。その意味で、イエス様は私たちの誰よりも貧しくなられたのです。けれどもイエス様は人としての歩みの中で、私たちの誰よりも天の神様を信頼して歩まれました。この信頼によって、イエス様は誰からも、何からも自由でした。最も貧しい者として生き死んだイエス様は、実は最も豊かに生きる術を知っている方だったのです。
話し合いのヒント
1) 主が私たちのために貧しくなられたとは、どのようなことを意味していますか?
2) 出エジプト記の16章は私たちにどのようなことを教えてくれますか?