February 14th, - 20th, 2010 Vol.17 No.7
豊かに蒔いて豊かに刈り入れよう 2コリント 9、ヨハネ6:5-11、12:24-26、詩篇126:5,6
A 種を惜しんでは収穫を得られない
聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。(1) わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。(2) わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。(3) そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。(4) そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。(5)
ここに書かれている贈り物とは、困窮していたエルサレムの教会の人々のための義援金です。コリントの人々は心から困っている人々を助けたいと願い、自発的に義援金を贈ろうと決めたのです。ところが時がたつに連れ、自分たちの教会にも様々な問題が起こり、その熱意は冷めてしまっていました。 贈り物に限らず、誰かのために犠牲を払って何かをしようという思いは、自分の問題に目を奪われる時に冷めてしまうことがあるのです。神さまがあなたを通して愛を現そうとするとき、悪魔はそれが実現しないように、あなたががっかりするようなことを起こして、愛を冷まそうとチャレンジしてくるのです。このときコリントの人々は、少し強すぎるほどのパウロの励ましが必要でした。そうでなければ悪魔の思うままに、この良い行いを放棄してしまっていたかもしれません。
美しく、慰めと励ましに満ちた詩を紹介します。詩篇126:5,6を開いてみましょう。
涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる ここには、自分が泣きたいような状況におかれている人でも、立ち上がり種を蒔くなら大きな祝福が与えられることが歌われています。自分には少しのものしかなくてもよいのです。問題はそれを蒔くかどうかです。持っているものが豊かであれ、少しであれ手放すことにはためらいをおぼえます。しかし、それを手放さなければ収穫を得ることはできません。自分の物、財産、時間、労力、能力を惜しまず捧げなければ、収穫は望めないのです。私たちは世界中に種を蒔いています。それはやがて「イエス・キリストを信じる信仰による罪からの解放」という実を結ぶ種です。コリントの人々のように状況を見てもひるまず、たとえ小さな種のような「愛」であっても、喜びの収穫を夢見て、神様を信頼して蒔きましょう。
B 惜しみなく捧げよう、神様の働きのために
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。(6) 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(7) 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。(8) 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。(9)
神様の働きのために捧げよう、などというとなにか大げさなことのように思えますが、実はとても日常的なことです。クリスチャンならそれぞれが置かれたところで毎日、愛という種を蒔こう、ということです。パウロがここで引用しているのは詩篇112編です。本当の幸せは主の戒めを深く愛する人にとどまるのです。
イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。(ヨハネ6:5-11)
この出来事は、少年にとって生涯忘れられない大きな幸せのしるしとなったに違いありません。自分が差し出した食べ物が、イエス様によって用いられそこにいたすべての人がほしいだけ食べることができたのです。この喜びを知った彼は生涯、喜んで与える人になったのではないでしょうか?
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。(10) あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。(11) なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。(12) この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。(13) 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。(14) 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(15)
イエス・キリストは、あなたが見返りを求めずに愛するときに、結果がどうあれ愛し続ける力を、慰めを豊かに与えて下さいます。だから私たちは結果が目に見えなくても、愛し続けることができます。そして愛し続けることによって、愛において成長し豊かな収穫を得ることができるのです。世が与えることのできる楽しみや喜びは限りがあり、やがて色あせます。この愛の収穫だけが私たちの心に真の満足を与えることができます。このことを、この世界に最初に伝えたのはイエス・キリストです。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ12:24,25)
イエス様は、ひとごとのようにそう言われたのではありません。実際に、一粒の麦として死なれたのです。それが十字架の出来事です。その結果、すべての人に愛の内を歩む道が示されたのです。イエス様は、あなたも自分の十字架を負って私に従ってきなさい、と勧めておられます。それは自分中心な考えを捨て、様々な犠牲を厭わず愛しなさい、という勧めです。イエス様は、私たちの罪(神様に背を向け自己中心な生き方をしている状態)を清算するために十字架で死なれたのです。この犠牲の恵みを自分のこととして信じイエス様に従って行くということが、この世で自分の命を憎むという表現の真意です。多くの人は自分の満足を追い求めるように生きていますが、その結果を満足している人はいません。それは、大切な命を失っているような状態です。しかし自分の満足のために生きようとすることを止めたとき、初めて本当の満足が訪れます。それは一生涯というだけではありません。永遠にイエス様と共にいる者となるのです。
メッセージのポイント
神様の働きのために大胆に捧げようと決心し計画を立てても、自分たちを取り巻く様々な環境の変化によって実行することを恐れて躊躇してしまうことがあります。手の内にあるものが乏しければ、失敗によってそれさえも失ってしまう、という恐れもやってきます。しかし種を土にまかなければ決して収穫することはできないのです。神様を信頼する人なら自分の持っているものを少ないと思ってはいけません。神様は二匹の魚と五つのパンで5000人の空腹を満たすことの出来るお方です。イエス様ご自身も、その原理に従って自分の命を献げられました。その結果世界中の多くの人々が永遠の命を得ることとなったのです
話し合いのヒント
1) なぜパウロはコリントの人々にこのように書き送らなければならなかったのでしょうか?
2) 種まきを惜しみたくなる要因にはどのようなものがありますか?