February 28th, - March 7th, 2010 Vol.17 No.9

偽使徒に注意する 2コリント11:1-15、創世記3:1-5、ヨハネ10:11-18

A コリント教会の創設者としてのパウロ

1) 責任者の自覚 (1,2)

わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。 あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。

今日、皆さんには手紙を受け取ったコリントの人々ではなく、書き送ったパウロの側に立って、このテキストから学んでいただきたいと願っています。世間では牧師というと、日曜礼拝の説教をしたりキリスト教式の結婚式やお葬式を執り行ったりする人と考えられています。たしかにそれも働きの一つです。けれども牧師の働きの本質はお世話をすることです。牧師の牧は羊飼いの意味です。英語のPastorも元々は羊飼いを意味する言葉です。牧師の師は先生の意味ですから、「牧師先生」というのは同語反復です。私は聖書がすべてのクリスチャンは羊飼いだと教えていると思います。子供でも、クリスチャンになったばかりでも例外ではありません。あなたには、あなたの愛、慰め、励まし、お世話を必要としている人がいます。それらの人々にとっては、あなたが羊飼いなのです。私はみなさんの牧師ですが、皆さんは羊ではなく羊飼いです。教会のリーダーが牧師でクリスチャンは羊という考えでは、クリスチャンは一生、お世話をしてもらうだけの存在になってしまいます。ですから、教会の牧師は羊飼いであるみなさんの先生だと考えて下さい。  まず皆さんに気付いていただきたい事は、あなたの羊の存在です。そしてお願いしたいことは、その人に対して神様と同じ熱い思いをもって愛して下さいということです。あなたの羊に対する責任はその人をクリスチャンにすることではありません。それは神様のなさることです。様々な方法でそう言わせることができたとしても、心を変えることはできません。イエス様を紹介することならできます。しかしそれも、その人を愛することなしにするなら偽善です。パウロは自分に委ねられた人々を主に献げると言っていますが、それはどういう事なのでしょうか?献げるということは、その人を自分勝手に導くのではなく、神様の考えに従ってお世話をするという事です。あなたが迷ったらその人も迷ってしまうのですから、責任は重いのです。教会では子供が生まれると、献児式、あるいは小児洗礼という形で、神様にお捧げします。それは、私たちは自分の思い通りにではなく、あなたの意思に従ってこの人を育てます。どうぞ正しく導いて下さいという決心の告白です。そして、それはあなたがこの子を愛されるように、私たちも愛し続けます、という決意でもあるのです。

 

2) 責任者の心配 (3,4)

ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。

パウロは、コリントの人々をとても心配していました。彼らが偽りの教えに陥るという事が実際に起こっていたからです。そこで私達の責任は、その人がイエス様を信じたら終わる訳ではないという事がわかります。日本では人口の5%以上が自分はクリスチャンだと思っているそうです。ほぼ毎週教会で礼拝を捧げているクリスチャンの数は1%以下です。この数字のギャップは、5%の中に教会の一部である事をやめてしまった人、モルモン教やエホバの証人、統一協会に入っている人などが含まれているからです。福音を伝えないのにキリスト教を名乗る、これらの団体の創始者は元々伝統的な教会の中にいたのに離れていった人々です。イエス様ご自身が、私たちは、その体である教会につながっていなければ良い身を結ぶことができないばかりか、枯れてしまうことを警告されています。(ヨハネ15:1-10, エフェソ1:23) 皆さんの周りには、まだイエス様の牧場に入ったことの無い羊もいれば、イエス様の牧場から迷いだした羊もいます。どちらにしてもイエス様を知らずに歩くことの危険を知らない彼らを、みなさんはパウロと同様に心配していると思います。しかし心配は何も生み出すことはありません。心配を、イエス様から知恵と力と勇気をいただいて愛の行動に変えて現しましょう。

 

B偽使徒から教会を守るために

1) 使徒と偽使徒の違い (5-12, ヨハネ10:11-18)

あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。 わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。 あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。 わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。 なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。 わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。(5-12)

この部分によると、コリントで活動していた偽使徒たちは話し上手で、自分たちをスーパー使徒と呼ばせていたようです。彼らは、本物の使徒なら堂々と人々から報酬を得るのが当然と言い、パウロの説教は素人っぽく、また無報酬で行っているのは無責任だからだ、パウロはコリントの人々を愛していないとさえと非難していたのです。皆さんが、良い羊飼いであるために大切なことが何かをここから学ぶことができます。福音についての正しい知識は必要ですが、沢山の知識を求められているわけではありません。また上手に話せることが求められているわけでもありません。それをすることによって収入を得るプロフェッショナルの宗教家である必要もありません。必要なのは「愛している」ということです。イエス様の言葉を聞いてください。

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ10:11-18)

パウロはこの手紙の3章で「クリスチャンは聖霊の働きによってイエス様と同じ姿に造りかえられてゆく」と書いていますが、それは単に品性が聖くなるというのではありません。羊飼いというイエス様の本質が、私たちの本質になってゆくということです。これが私たちに期待されている霊的な成長です。

 

2) 注意深く見分けなければならない (13-15)

こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。(13-15)

私の見る所、日本のクリスチャンはナイーブ過ぎます。イエス様は12人の弟子たちを宣教に送り出す時に「私はあなたがたを遣わす。それは狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16) わたしたちには蛇のように賢いという部分が足りないのです。皆さんの大切な羊が、神様以外のものを偶像として崇めないように、聖書を使ってなされる偽りの教えに戸惑わされないようにするには、まず羊飼いである皆さんが思慮深くある必要があります。それは、あなた自身がどれほどしっかりとイエス様とつながっているかということにかかっています。この絆は心を注ぎ出すような礼拝、ミニチャーチでの交わり、そして実際に羊を愛することを通して、さらに確かなものになってゆきます。

メッセージのポイント
キリストの教会の働きを破壊しようとする力は、いつも私たちの隙を狙っています。わたしたち教会の働きは、神様の愛を伝えるために人々を招き、整え、送り出すという前進的な面だけではありません。偽りの教えとそれを教会に持ち込もうとする者から人々を守るという守備的な面もあるのです。クリスチャンであれば誰でも、これら両面の責任を担っています。偽りの教えは巧妙なので、私たちは福音の本質をしっかり身につけている必要があります。

話し合いのヒント
1) コリントの教会にはどのような問題が起こっているのでしょう?
2) パウロは自分と偽使徒たちとの違いをどう説明していますか?