March 14th, - March 20th, 2010 Vol.17 No.11
弱さを誇ろう 2コリント11:16-33、ルカ22:24-30、エレミヤ9:22,23
A 自分を誇る者に気をつけよう
もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。(16) わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。(17) 多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。(18)
どんな団体であろうと、人が集まれば、力を持って支配しようとするものが現れ、様々な誇りによって自分を正当化し、その支配を強めようとします。残念なことに、それは「互いに仕え合いなさい」と教える聖書の教えを信じるキリスト教会にも起こります。コリントの教会はその最初のケースだったのです。本来キリスト教会は、先頭に立って自分を誇ることの愚かさ、罪深さ、弊害を人々に伝え、健やかな社会を作るという使命を神様からいただいて出発したはずです。しかし、その歴史の最初から堕落する危険を内包していたのです。そこで教会が正しく歩むためにはいつでも、イエス様の言葉と振る舞いに立ち戻る必要があります。
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)
イエス様ほど徹底的に人に仕えた方はいません。神と崇められることを願わず、その地上での歩みの最後は、私たちの罪の犠牲として屠られる動物のような者として十字架で苦しみ死なれたのです。この社会では、悪魔が与える自己中心的な支配権の方が、人気があります。いかに強力な兵器で他国を屈服させるか?どのようにして富や権力を自分に集中させるか?人より高い地位につくか?しかし、イエス様はそれではいけないとおっしゃいました。神様が下さる支配権とは全くそのようなものとは正反対なのです。それは自分が人を支配する権利ではなく、神様の正義が行き渡るように働く権利なのです。マザー・テレサはこの権利を正しく用いた人でした。彼女だけがクローズアップされることが多いのですが、世界中の至る所で仕える者として生きている人々がいて、神の国の前進に寄与しているのです。しかもそれはクリスチャンの中の特別な人に求められていることではありません。前回のメッセージでは、全てのクリスチャンは羊飼いイエス様の姿に向かって成長して行くことをお話しましたが、クリスチャンの成長とは僕(しもべ)としてのイエス様の姿になってゆくものでもあるのです。
賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。(19) 実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。(20)
ここを読むとコリントの教会は、ほとんど本来の姿を失い、人々は抵抗することもできなかったようです。偽使徒の誇りとする家柄や英雄的な物語が、自分の弱さのうちに働くイエスキリストだけを誇りとすることよりずっと魅力的に見えたのです。 教会が、イエス様の権威ではなく、教会自体の権威を誇るようになり、イエス様の福音とは異なる救いの道を教え始めると、神様は改革者を起こされます。それで人々は見上げるべき真の権威と十字架の福音に立ち返るのです。 ユアチャーチは誇るべきものだけを誇っているでしょうか?見上げるべき真の権威、十字架の福音に固く立っているでしょうか?リーダーたちは皆さんに仕える僕でしょうか?皆さんは人々の僕として仕えているでしょうか?私たちが悪魔の差し出す甘い飴に手を出して人を支配しようとしていないなら幸いです。(ルカ4:5-8)
B あなたが誇れること
言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。(21) 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。(22) キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。(23) ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。(24) 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。(25) しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(26,27) このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。(28)
パウロは誇ることの愚かさを知っていましたが、コリント教会に影響力を持っていた者たちが、誇りによってその権威を正当化していたので、一度その土俵に立って議論する必要を感じたのです。そのようなことは実は誇りにならないけれど、それが誇りだというなら、自分はそれ以上の家柄に生まれ、イエス様の弟子にふさわしい体験をしてきたと言っています。それにしてもここを見るとパウロが何回も死にかけるほどの危機に会い、ひどい目にあってきたことがわかります。パウロは自分がスーパー使徒だから乗り越えてきたとは思っていません。これだけの目にあってもなぜ異邦人の使徒という生き方を止めてしまわなかったのか?それは彼が主と共に歩んでいたからです。イエス様とともに歩んでいるなら、どんな困難があっても歩き続けることができるのです。
だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。(29) 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。(30) 主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。(31) ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。(32,33)
パウロが誇りとしていたのは、弱さに関わることだといっています。それは神様だけを誇りとする、ということです。なぜなら神様は私たちの弱いときにこそ働かれる方だからです。パウロ自身、その真理を身にしみて知っていました。それはイエス様がこられる前から、預言者達を通しても神様が教えて下さっていた真理です。
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。(エレミヤ22,23)
イエス様を知っていることだけが、私たちの誇れることです。なぜなら、その体である教会=私たちを通して、この地に慈しみと正義と恵みの業を行うといわれ、その生き方は神様にとっても喜びだと、保証されているからです。それ以外のあらゆる虚しい誇りから解放されるということは、その誇りの裏返しのように存在する劣等感から解放されるということでもあります。偶像礼拝から解放される。罪から自由になれる。さあ主を知ることを誇りましょう。あなたは慈しみの人、正義の人、恵みの人、神の人として立てられているのです。
メッセージのポイント
自分を誇ることは正しいことではありません。私たちがただひとつ誇れるとすれば、それはイエス様を信じているということだけです。このことは高慢にはつながりません。それは人をけなすよりも人を助けるからです。このただひとつ許される誇りは、自分の弱さをイエス様が補ってくれることを喜び、できるだけ多くの人にそれを伝えようとする力です。弱いこと小さいこと少ないことを心配したり、嘆いたり、不平をいったりしないで、イエス様に心を満たしていただくことを勧めて下さい
話し合いのヒント
1) このときコリントの教会はどのような状態だったのですか?
2) 弱さを誇るとはどういう事ですか?