March 21st, - 27th, 2010 Vol.17 No.12

弱いときにこそ強い 2コリント12:1-10

先週、私たちが唯一誇れるのは主イエス・キリストを知っていることだとお話しました。今日は、この誇りがいかにあなたの人生に大きな力を与えるかについてお話します。この部分で著者パウロが教えてくれる人生のキーワードは「私は弱いときにこそ強い」です。

1) 誇れる、誇りたい、でも誇るべきではないこと (1-7a)

わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。(1) わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。(2) わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。(3) 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。(4) このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。(5) 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、(6) また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。(7a)

パウロは、生粋のユダヤ人でありながらローマの市民権を持つエリートでした。深い学識があっただけではなく、霊的な深い経験もしていました。婉曲な言い方をしていますが、ここに書かれていることはパウロ自身の経験です。コリント教会で人々を支配している人々が、家柄や知識を誇っていたので、それが虚しいということをはっきりさせるために自分が誇れることを書いているのです。しかしそれらは、パウロにとってそれはどうでも良いことだったのです。フィリピの信徒への手紙3章では「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」と言っています。ここで注意しておきたいことは、パウロがユダヤ教徒としての家柄や教養だけではなく、クリスチャンとなってからのすばらしい霊的な体験さえも誇るべきことではないとみなしていることです。現代の教会では、パウロが注意深く避けた落とし穴に陥っている状態が見られます。弱さだけを誇りとしないということは、結局神様に頼らず、自分たちの出来ること、持っていることに頼るということになります。たしかに神様は良いもの才能を豊かに下さいますが、それらは誇るべきものではないのです。もしあなたが人のあまりしていない霊的な体験をしていたとしても、パウロのように考えるべきです。 それは神様が思いのままに賜物を分け与えられた結果なのですから、あなたが誇ることはできません。このような人の誇りによって教会の働きが成り立っているとしたら、私たちは神様がここでなさろうとしていることを見ることができません。「イエス様がわたしを見つけ出して下さった。イエス様の後に従って歩いている」このことだけを誇りとして歩んでゆきましょう。そうすればユアチャーチは神様にとってもっと使いやすい教会になれるでしょう。

 

2) 弱さを誇ろう (7b-9)

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。(7b) それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。(8) この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(9)

刺とかサタンから送られた使いというと、何か神様が意地悪をしているか、罰を与えておられるかのような印象を持たれるかもしれませんが、どうか誤解しないで下さい。わたしたちは、この社会に生きている限り、病気になったり、事故にあったりすることがあります。それらは決して神様からの報復のようなものではありません。神様はあなたが何か罪を犯したから罰を下すという方ではありません。聖書のいう罪とは神様に背を向けて生きることです。まだこの世界にはそのように生きている人が多くいます。この世界の罪の状態が様々な災害を引き起こし、直接関係の無い人まで巻き込まれ、命を失ったり、後遺症に悩んだりするのです。先週ヴィデオで登場してもらったニックさんのような人を、かわいそうな犠牲者と見る人もいるでしょう。神様に良く管理をするようにと任されたこの世界を、神様から背を向けて目先の利益を追求し、安全を軽く見て他人の不幸を考えずに生きてきた人類の罪の巻き添えを受けたのですから。しかしニックさんは自分をそのように見てはいません。『私を見て、自分よりかわいそうな人がいると安心してもらいたいのではありません』と彼は言っていました。彼の、他人にはひどいハンディーキャップに見える障害を通して神様の恵みが、キリストの力が、聖霊の喜びが彼のうちに溢れていました。彼は、『あなたにもわたしが与えられた大きな喜びを、力を、愛を受け取ってほしい』と行く所、行く所で呼びかけているのです。パウロの刺とは何だったのか、わたしの刺とは何だろうということを考えるのは、暇でしょうがないときにして下さい。今あなたが心に刻み付けるべきことは、あなたの弱さ、ハンディーキャップがどのようなものであっても「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とパウロに語られた主の言葉です。

3) 弱いときに強い (10)

だから、とパウロは続けます

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(10)  

結局、神様の前に自分の弱さを認めた人が、真の強さを持っているということです。消えることの無い満足を持っているということです。クリスチャンになるということは、神様の前に、自分の全ての重荷を降ろすということです。それまでの重荷が大きくても小さくても、降ろしてしまった人には関係が無いのです。  今日お話していることは癒しを求めてはいけないということでは決してありません。求めたい気持ちがある限り、祈り求め続けて良いのです。神様は癒して下さるでしょう。しかし神様はある時あなたに、パウロに呼びかけられたようにおっしゃるかもしれません。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。無理にそう思い込まなければならないのではありません。神様がそう語られるときには、パウロやニックが喜んでそう思えたように、あなたもこう言えるでしょう。「わたしがしてもらいたいことは、わたしを癒して下さることではありません。この弱いわたしの中にあなたの強さが発揮されて、あなたの愛がわたしの周りに届けられますように」

メッセージのポイント
パウロは、普通の人は経験することのない不思議な体験をしました。宗教指導者としては、最高に誇れるような体験だったようです。しかしパウロにとってはもっと大切な、それよりはるかに尊いこととして、自分の弱さの中に発揮されるキリストの力を強調しています。この恵みを知っているなら、どのような逆境にあっても強く生きることができます。

話し合いのヒント
1) なぜパウロの身に刺が与えられたのですか?
2) パウロに刺を与えたのは誰ですか?