April 4th, - 9th, 2010 Vol.17 No.14

あなたの新しい人生も始まる  ヨハネによる福音書20:19-23

A. 恐れの中の平和

1) 絶望が希望に変わる瞬間 (19)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19)

がたに平和があるように」と言われた。(19) この時まだ彼らの心は恐れに支配されて混乱していました。イエス様が殺されてしまったばかりか、その亡きがらさえ取り上げられてしまったと思い込んでいたのです。 ところが、彼らが潜んでいた鍵のかかった部屋の真中に突然イエス様がお立ちになりました。そして絶望していた彼らの心に「平和」を投げ込んだのです。普通、争いや葛藤や恐れのない状態が平和だと考えられています。言い換えれば、自分を取り巻く人々や物事と良い関係を保っている、ということになります。聖書は平和の中心が「神様との平和(良い関係)」であることを教えてくれます。あなたに神様との平和がなければ、全ての平和は成り立たたないという極めて重要な事実を聖書は告げているのです。しかしそれに多くの人は気づいていません。聖書の最初の部分、創世記第一章では神様があらゆるものの最後に、私たち人間をご自身に似せてつくられ、つくられたすべてのものは極めて良かったと記されています。最初は確かに平和があったのです。私たちはいつから平和を失ったのでしょうか?それは同じ創世記の第三章に記されているある事件の時からです。最初の人間であるアダムとエバは神様の意思よりも自分の欲望を優先させ、食べることを禁じられていたエデンの園の中央にある木の実をとって食べました。神様との平和を捨て、神様に対する恐怖が人の心に生まれた瞬間です。神様との平和を失うとアダムとエバは責任のなすり合いを始めました。欲望に従って生きると問題が起きる。問題が起きると誰かのせいにする。誰かのせいにしても問題はなくならず、新たな問題が発生する。平和の破壊は再生産されて世界中に広がっている。それが今の世界の姿です。  恐れていた彼らに最も必要だったのは「生きていてともに歩んで下さる神様」イエスキリストとの平和の回復だったのです。そしてイエス様は与えました。あなたにも神様との平和が必要です。平和を愛するというなら、本当に平和が欲しいなら、神様との関係を回復しなければどんな平和も手に入りません。それは十字架につけられ、よみがえられたイエス・キリストをあなたの主、あなたの神として受け入れて、彼に従って歩み始める。あるいは、もう一度主と共に歩み始めるということです。

2) 主を見て喜ぶ (20)

そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20)

弟子たちは、あまりの悲しみや恐れに、イエス様が三日目によみがえると予告されたことをすっかり忘れていました。しかしイエス様は、手と脇腹の傷をお見せになり、それで彼らの失望は喜びに変えられました。皆さんの中にも、もしイエス様がこの中に現れて、その傷を見せられたら信じます、という人がいるかも知れません。残念ながら聖書の約束ではイエス様が再びこられるのは終りの日です。幻として見せられたり、声を聞かされたりすることはあっても、傷付いた体を持ったイエス様と会うことはできません。しかし教会はイエス様を頭とする、目に見えるキリストの体であるといわれています。教会はイエス様の愛をいただいて、愛するために生きることを決意した人々の共同体ですから、その働きの中で主は生きておられるということを見ることができます。ちょうどイエス・キリストが傷を負った姿でご自身を現されたように、キリストの体も完全ではありません。弱く、傷だらけで、よく失敗もするひとりひとりの集まりですから当然です。しかしこのような弱さの中でこそ、イエス様の存在がはっきり表されることを、私たちは最近のコリントの信徒への第二の手紙で学びました。弱いけれども、ここで誰もが主を見て喜ぶことができる。それが本当の教会の姿です。

B. 大使としての人生

1) 福音配達人 (21,23)

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

誰にとっても人生の土台として神様との平和が必要であるからこそ、イエス様はよみがえられた後の最初の言葉は、「あなたがたに平和があるように」でした。そしてここで弟子たちを世に送り出す言葉とともにもう一度繰り返されています。それには二重の意味があります。ひとつは、神様との平和は神様の働きをすることの土台でもあるということです。この仕事に失敗する原因はたった一つしかありません。それは神様との平和を失うことです。もうひとつは、私たちに与えられている務め自体が、神様との平和を人々の心にもたらすことだということです。神様との平和を回復した者には、その平和を伝える働きが与えられているのです。それは、あなたが、石ころが詰められたバックパックのように無意味な重荷を主の前においたとき、代わりにいただく追いやすい軛と表現されているものです。(マタイ11:18-30) 今私たちは、神様から派遣されて、この世界に置かれているのです。

(21) だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23)

ここでも、イエス様がわたしたち教会をご自身の体としてみておられることが分かります。私たちがイエス様を宣べ伝えている、のではなく、イエス様ご自身の宣教に用いられているのです。この働きは人々を神様との平和の中に招き入れるという重要なものです。私たちはここで裁判官のように振舞いなさいと勧められているわけではありません。むしろ私たちの働きが、人々の人生に最も大きな影響を及ぼすということを覚えて、真剣に歩みなさいという勧めです。

 

2) 神様の霊に満たされて歩む(22, 創世記2:7)

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22)

息を吹きかけるということは聖書に二箇所しか記されていません。ここと、創世記の二章のアダムを生かすために神様が命の息を吹き込まれたというところです。神様の息とは聖霊のことです。人が、神様とともに歩むということは聖霊に満たされ、聖霊に従って歩むということです。弱さを自覚している私たちが、先に読んだ23節の罪を赦す権威をもって力強く務めを果たすために、聖霊に満たされることは不可欠です。私たちがいただいた神様との平和を保つことも、それを人々に伝えることも聖霊の働きなしにはできないことだからです。  説教のまとめとして皆さんにお勧めしたいことは、二つのことです。まず神様と平和な関係を結ぶこと。皆さんは、自覚的にではなかったとしても、神様に背を向け、悲しませ自分勝手な道を歩んできました。しかし今、神様のもとに帰る道が開かれたのです。十字架によって代価は払われ、主の復活によって死は敗北したのです。ただあなたがイエス・キリストを信じて従うことによって、神様との永遠の平和が訪れます。そしてもうひとつは、聖霊に満たされなさいということです。期待して待ち望むところに聖霊は働かれます。私たちは経験として聖霊の働きが最も顕著に表されるのはワーシップやミニストリータイムのなかであることを知っています。さあこれからのワーシップタイムに主に従う決心ができることと聖霊に満たされることを期待して下さい。

 

メッセージのポイント
絶望的な状態に置かれていても、イエス様に出会えば、誰でも喜びと平和に満ちた新しい人生を歩み始めることができます。イエス様を主と信じ歩みだす決心をするなら、イエス様はあなたに新しい命の息を吹き込まれ、神様との永遠の平和のうちに生きられます。クリスチャンの人生の目的は、この究極の喜びと平和を人々に伝えることです。

話し合いのヒント
1) 今、私たちはどのように主を見ることができますか?
2) 神様はあなたにどのような人生を用意していて下さいますか?