April 4th, - 9th, 2010 Vol.17 No.14
すべてはあなたがたを造り上げるために コリントの信徒への手紙2 12:11-21
A. 私たちがし続けるべきこと
わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。(11) わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。(12)
パウロの、なんとかコリントの人々に最初の信仰に立ち戻ってほしいという願いは、あえて彼の嫌う自己推薦や弁明を用いてまでも説得したほどに大きかったのです。しかし、自己推薦をするということ、自分の弁明をすること自体は、常に彼にとって大きな苦痛であったようです。ここで皆さんに注目していただきたい言葉は「忍耐強く」という言葉です。他の日本語訳では、もっと強く「忍耐を尽くして」と表現されていますが、その方が原語のニュアンスに近いと思います。主を知らせる、主にあって育てる、主にあって送り出すという私達の働きは忍耐の限りを尽くさなければ出来ない、という事を知らなければなりません。忍耐の好きな人はいませんが、価値のあるものほど手にいれるのに時間も手間もかかるものです。それは逆に言うならどんなに行き詰っても、何が起こっても、起こらなくてもあきらめなくて良いということです。
詩 103:8 主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。
ルカ 8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。(13) わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。(14) わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。(15)
パウロはコリントの人々には経済的な負担を一切かけていませんでしたが、パウロを認めない者たちはそれがパウロの無責任さの現れだと非難しましたが、むしろパウロは子に対する親のようにコリントの人々を愛そうとしていたのです。その気持は特に13節14節に現れています。私たちは私たちの愛する人々が、主に出会って変わることを期待しています。それは少しでも自分の利益のためであってはならないはずです。パウロは自信を持って、偽使徒、スーパー使徒に対して挑戦しています。しかもあなたの愛する人々が主に結びつくということは、自分自身を使い果たすような奉仕によって起こることです。生涯をかけての神様からの宿題なのです。
B. どのように?何のために?
わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。(16) そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。(17) テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。(18)
先の神様からの宿題をするのにあたって大切なこと。あなたの最も大切な親友イエス様を紹介するのに大切なことをここから学ぶことができます。それは誠実さと、同じ霊に導かれ、同じ模範に従ってということです。誠実さは私たちの罪の性質によっていつも脅かされています。実際に誠実さを欠く言動をしてしまいます。悔い改めは、回心の時に一回限り必要なものではありません。むしろクリスチャンの生涯は、悔い改めの生涯(マルティン・ルター)なのです。それで初めて私たちは誠実さを保つことができます。神様が悔い改めに応えて下さる方であるからです。 もう一方の同じ霊に導かれ、同じ模範に従ってということですが、皆さんはもちろん意識して悪霊に導かれよう、この世の法則に従おう、などとは思っていません。コリントの教会の人々も同じでした。しかしこの教会はひどく変質してしまっていました。もはや聖霊の導き、イエス様の教えには無意識のうちに、従ってはいなかったのです 自分が命をかけてたてあげられた教会が、そのような状態になってしまったのを見ているパウロの気持ちが想像できますか?そう思って読むなら、この手紙の一見人間的なくどさに見える表現が、子供の信仰の危機を案ずる親の気持の現れのように感じられます。
あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。(19) わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。(20) 再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。(21)
パウロのコリントの人々に対する働きかけの「全ては、彼らを造り上げるためだ」と言う告白はとても重たいものです。イエス様を伝えることは、単に個人が個人に対してする個人的なものではありません。キリストの体の一部である私たちが、イエス様から遠く離れてバラバラになっている多くの魂に呼びかけ、イエス様に結びつけて共にキリストを頭とするひとつの体を造り上げることなのです。(1コリ8:1 知識ではなく愛が)
メッセージのポイント
パウロはコリントにおいて、何を言っても、どのように行動しても、悪意を持つ人々による悪評に苦しめられました、忍耐強く働きかけることを諦めませんでした。彼は自分の計画を達成するためではなく、神様の働きのために自分を使い果たす生涯を選びました。聖霊に従い、イエス様の歩みを規範に、同じ志を与えられた人々とともに、人々をキリストの体の一部として造り上げることは、今でも変わることなく教会に課せられたつとめです
話し合いのヒント
1) パウロはコリントの教会で、どのような人だと思われていたのでしょうか?
2) 人を造り上げるとはどういう事なのでしょうか?